『デミアン』に限らず、小説内部で展開する世界そのものが全て作者の想念から生まれた幻影世界である。小説が持つリアリティは、個々の読者によって異なるものである。なぜならば、小説のリアリティとは、読み手が経験してきたさまざまな事象の記憶を知らず知らずのうちに参照しながら、感じ取るものだから。あるいは、わたしたちが<現実>と呼ぶ事象の起承転結の流れに照らし合わせて、感じ取るものだからである。
事実は小説よりも奇なりという言葉が示すとおり、小説の珍奇な筋立て以上に突飛な「偶然」や隠された筋書きの唐突な出現が、わたしたちの生にはつきものである。それは、纏綿と綴られた緻密な小説の筋立てよりも、はるかに無秩序で予想のできない穴だらけのストーリーである。この筋書きともいえぬ筋書きに巻き込まれるとき、ひとが感じるザラザラした粗い手触りこそ、「現実」と呼ばれるもののリアリティの正体なのかもしれない。
岸田秀を持ち出すまでもなく、つきつめていけば唯幻論的な解釈を可能とする意味の網目の世界を私たちは現実として認識している。奇跡という現象もまた、そうした意味の世界から現実に立ち現れる現象の一つである。
そう考えると、ファンタジックな小説のなかの不可思議な世界も現実とかけ離れたものとはいえなくなる。小説と現実とは、相互に境界を侵食しあい、それぞれの世界を構築する意味づけを互いに参照しあっているのである。それぞれの世界を紡ぎだす方法は異なるが、意味づけについては、共有する部分を持っている。
この現実と小説を結びつける想像力や意味付与・解釈の働きが活性化するもう一つの場として、夢の世界がある。夢もまた、幾重にも選択可能なストーリーのなかから、夢を見る主体がチョイスをし、解釈可能な形にまで整形し、ある種のリアリティーを持たせた創作物である。その整形のモメントが果たしてフロイトが言うように禁欲から生じた検閲という仕組みなのかどうかはさておき、悪夢も予知夢も願望夢も、幾重にも変装しながら、かろうじて勝ち取ったリアリティを披露する表現の場である。
それは意味付与と解釈から成り立った世界であり、その世界の片翼は日常の生活のなかで得られたリアリティの感覚に触れ、もう一方の翼は、読み、眺め、聴いた文化形成物(この場合は小説)から得たリアリティ構築の動きに触れている。
ときとして、夢と小説世界が限りなく近い存在に感じられるのも、両者の領界を浸透しあう意味の層が存在していることの証である。
小説が夢に、夢が小説になる往還運動がたえず行なわれており、そこに現実と呼ばれる認識の場が深くかかわってくれば、現実と区別のつかぬリアルな夢に捉われ、小説に似た展開の現実が姿を現し始める。
また、場合によっては、夢のような現実が姿を現す場合もあろう。夢の認識の枠組みに引き寄せて現実を認識したとき、ひとはスピリチュアルな、ある種、非合理、不合理、夢のような現実に遭遇するのだともいえる。
夢から現実へ、現実から夢へと流れ入る一つの意味の伝達系として、象徴を軸にした認識の形成がある。現実に隠された神秘的な意味を読み取る解読格子として、また、夢に隠された現実的な意味を発見する手がかりとして象徴というものがある。形象化された象徴もあれば、音や響き、言語化され言葉として現れる象徴もある。この象徴という、意味を呼び寄せるマグネットのような存在を携えて、わたしたちは、たやすく夢から現実へ、現実から夢へと行き来することができる。比喩的に言えば、象徴は、現実と夢の領界を繋ぐ意味の伝達通路を捜し出すサーチライトのようなものだ。
以上が、前回、田中 裕氏によるシンクレール=デミアン説を読んでから、『デミアン』に限らず、そもそも、小説世界が実現しようとしているリアリティとは何を意味するのかという素朴な疑問が湧き、考えたことの一つである。
また、この小説をヘッセが実名で出さなかった理由についても考えてみた。
読者の立場から考えてみると、すでにドイツ語文化圏で詩人そして小説家として名声を博していたヘッセが実名で小説を書けば、自ずとそれは、ヘッセの思想を形にした創作物となる。読者は、ヘッセという小説家が、自らの思想を反映させた思想の乗り物として『デミアン』を受け取ることだろう。
これでは、ヘッセという自律的に思想を編み、小説を拵える主体の存在が作品の前景に立ちはだかってしまう。ところが物語の話者シンクレールと同名の作者名をもって著作を世に問うということは、それだけである種のいかがわしさを醸し出すことに成功することを意味している。
何者かの思想の反映物でありながら、その何者かの正体はみえない。まさに、アサーティブな個の表明とは正反対のいかがわしさだ。偽名という偽名にはすべてこの種の戦略が隠されている。
読者は、この小説の夢幻的な内容、そして、常に崩壊しそうな主人公の自我の危うさ、さらに、時として唐突に湧き上がる殺意や自殺願望という危険なテーマの源として、見知らぬ名前の新人を想像する。いいかえれば、ヘッセという自律した思想の持ち主から生れ落ちた作品として、冷静に作品批評をする余地は奪われ、主人公と同じ名前の、小説技法としても、速射的な早い書きぶりの、おそらくは新人の未熟な、それだけに、原石の魅力を湛えた作品と向かい合わざるを得なくなる。
そのとき、まさに自由な批評の言語を読者は獲得できるのだ。そうした思惑=戦略をヘッセは抱いていたに違いない。そして、その思惑はみごとに当たり、『デミアン』は無名の作家が書き上げた謎に満ちた蠱惑的な作品としてもてはやされ、大きな成功を収めることになる。
韜晦になったが、冒頭に述べたとおり、主人公のシンクレア=デミアン説は、幻想的な小説世界なのだから、当然、ありえる話である。しかし、そういう前提的な話とは別に、叙述上のトリックとして、シンクレア=デミアンという可能性を保証したり暗示したりする手の込んだ描写はなされているのだろうか。そして、シンクレア=デミアンであるという結論は、ドイツ文学(とりわけヘッセ研究)の権威が唱えているとはいえ、留保しておいたほうがよいのだろうか、あるいは、踏み込んで、同じ結論に達すべきなのだろうか。
この点について、小説の細部に当たってみよう。
まず、デミアンの登場箇所。(出典ヘッセ著 高橋健二訳『デミアン』岩波文庫 初版:昭和26年)
「私たちのラテン語学校に、少し前ひとりの新しい生徒がはいって来た。彼は、私たちの町にひっこして来た裕福な寡婦の息子で、そでに黒い薄ぎぬの喪章をつけていた。私より年はだいぶ上で、上の級にはいったが、彼はまもなく私の注意をひいた。もっとも彼はみんなの注意をひいていた。この一風かわった生徒は外見よりはずっと年長らしく、だれにも少年だという印象は与えなかった。私たち幼稚な少年のあいだを、おとなのように、否むしろ紳士のように、異様に、できあがった様子で立ちまわっていた。彼はみんなに好かれてはいなかった。彼は遊戯に加わらなかった。つかみあいなんかにはなおさら加わらなかった。先生に対する、自覚した、きっぱりした調子だけがみんなに喜ばれた。彼はマックス・デミアンという名まえだった。」
デミアンにたいするシンクレールの感情が綴られた箇所は次のような叙述だ。
「彼の顔は一種独特に私を魅了した。その賢そうな、明敏な、並みはずれてしっかりした顔を、注意深く才気をたたえて作文の上にかがめているのを、私は見た。(中略)・・・私は彼に対しある反感を持っていた。彼は私に対しあまりに立ちまさっていて、冷やかで、その態度はあまりに見おろすようにしっかりしていた。彼の目は、子どもにはけっして好かれないおとなの表情を持っていた。(中略)・・・私は彼をたえず見つめずにはいられなかった。だが、彼の目が私に注がれると、私はぎくっとしてまなざしをひっこめた。」
次に、シンクレールとデミアンの最初の対話は、こんなふうに書かれている。
「学校から帰途、彼は、私のうしろからやって来た。ほかの者たちが散り散りになったとき、彼は私を追い越して、あいさつした。(後略)「少しいっしょに行こうか」と、彼は親しげに言った。私は気をよくして、うなずいた。そうして、自分の住んでいるところを説明した。「ああ、あすこか」と、彼は微笑して言った。「あの家なら、もう知っているよ。きみの家の玄関の戸の上にはとても奇妙なものがついているね。あれにはぼくはすぐに興味をひかれたよ」 彼がなんのことを言っているのか、私にはすぐには見当がつかなかった。そして、彼が私より私の家をよく知っているらしいのに、私は驚いた。」
ここまでの叙述では、なんともいえない。登場場面には裕福な寡婦の息子として、デミアンの客観的な属性描写がなされているが、勉学に没頭するデミアンの表情については、幻影をみたシンクレールの叙述にすぎない可能性もある。「彼が私より私の家をよく知っているらしいのに、私は驚いた」という描写は、むしろ、シンクレール自身の分身がデミアンであることを暗示しているようにみえる。
次に、クラスの生徒たちのうわさの描写をみてみよう。
「デミアンは彼の級のものといっしょに、慣習の命令に従って教会で堅信礼を受けはしなかった。それにもまたすぐにうわさが結びついた。彼は実際はユダヤ人だとか、あるいは、いや彼は異教徒だとか、学校ではまたうわさが立った。彼は母親とともにまったく無宗教だとか、だいそれた悪い宗派に属しているとか、主張するものもあった。それと関連して私は、彼は母親と恋人相手のように暮らしているという疑いも、耳にしたように思う。おそらくそれは、彼がいままで信仰なしに育てられてきたということを意味していた。」
次は、大学生のデミアンにやはり同じ大学に進学していたシンクレールが再会する場面。シンクレールはデミアンが同じ大学の学生であったとは知らなかった設定である。
「胸をどきどきさせながら私は彼が弾力のある直立の姿勢で私のほうに向かって来るのを見た。彼はネズミ色のレインコートを着、腕に細いステッキをかけていた。規則的な歩調を変えないで、私のすぐ前まで来ると、彼は帽子を取って、口のきりっとして、広い額に独特な明るさのある、昔ながらの明るい顔を私に示した。 「デミアン!」と、私は叫んだ。彼は私に手をさしのばした。「じゃ、きみだったのか、シンクレール! きみを待ち受けていたよ」「ぼくがここにいることをきみは知っていたのかい?」「それは知らなかったけれど、断然そうなるだろうと思っていたよ。」
そして、デミアンとシンクレールが迎える別れのシーンは次のように書かれている。未読のかたにとってネタばらしになるといけないので、簡単に・・・・。
戦争で傷ついたシンクレールは運び込まれた野戦病院にて、やはり傷病兵として横たわっているデミアンを発見する。再び出合ったデミアンは、シンクレールにたいして、自分(デミアン)の助けが無くとも十分やっていける人間に成長していることを語り、励ます。その翌朝の描写。
「朝、私は起された。包帯されるはずだった。ようやくほんとに目がさめたとき、私は急いで隣の下敷きのほうを向いた。そこには見たこともないよその人が寝ていた。」
このように、デミアンに対する同級生の噂話から、別れの場面までの三箇所を抽出し、検証すると・・・・
同級生のうわさについては、シンクレールは同級生の側からデミアンを眺めており、信仰の違いを意識している。しかし、異和なるもの、異形なる者への強い興味とシンパシーも読み取れる叙述である。
大学での再会のシーンにみられる丹念に描きこまれたデミアンの服装についての叙述は細部に及んでおり、とても幻想のものとは思えない描写なのだが、偶然にも同じ大学に進学しているという筋立てと、デミアンの意味ありげな言い回しは、シンクレール=デミアン説・・・もう少し、はっきりといえば、デミアン=シンクレールの分身説を支持するお膳立てのようにも思える。最後のパートは、明らかに、幻影としてのデミアン像を強く印象付けるために、作者が用意した場面設定である。ここでも、傷病兵として偶然にも隣り合わせになるという筋立ては、デミアンとはシンクレールの影(ユングのいうシャドー)に過ぎないことを暗示している。何度も偶然を用意して、筋を展開する小説は、そのご都合主義ゆえに稚拙であるという評価を免れない。にもかかわらず、この『デミアン』という小説の中では、その偶然の出会いという筋立てが頻繁に用意されている。あえて強調されているといってよいくらいだ。偶然を強調することで、作者はデミアンがシンクレールの想像上の産物にすぎないことに注意を促しているともいえそうである。
こう仔細にみてくると、デミアン=シンクレールの分身説にかなり傾いてくる。しかし、上記では省いたが、小説の重要な要素として、デミアンの母親にシンクレールが惹かれていく描写は、デミアン=シンクレールの分身説の検証にとって重要である。
この母親は、その言動から察すると、ある意味ではデミアン以上に神秘的な世界の住人なのだが、知識人/文化人/芸術家などの取り巻きを従えているという、かなり現世的な側面も兼ね備えている。妙に、存在感のある人物設定であり、この点が引っかかる。
デミアンの母親が現実的存在として描かれているならば、デミアンを幻影として捉えることは難しくなるのではないか。母子共に現実的存在であり、「奇妙な血族」として位置づけたほうが、物語の輪郭は明確になる。そういう想いに捕われる。しかし、次の二種類の可能性も捨てきれない。
デミアンはシンクレールが創りだした幻影だが、デミアンの母親は、存在しており、デミアンを巡る記述のみ、シンクレール個人の幻想、もしくは、シンクレールとデミアンの母親とされる人物による共同的幻想、という可能性。
もう一つの可能性は、デミアンもデミアンの母親もすべてシンクレールが創り出した幻影であるという設定。
いずれにしても、こういう状況設定―つまり、幻影が二重三重に重なってくる設定―によって描き出された世界として、『デミアン』を捉えた場合、シンクレールの人格的分裂の状態の深刻さが浮き彫りになる。デミアンおよびデミアンの母親が幻影であると仮定した場合、彼らの服装や表情、活動や会話の内容は、それぞれ人格的な纏まりが感じられ、存在感がある。ここまで、リアルな幻影を抱えていることから推して、シンクレールの人格分裂という現象は、人格崩壊という危険な領域に差し掛かっている。
それはちょうど、ダニエル・キイスの『24人のビリー・ミリガン』という著作のなかのウィリアム・スタンリー・ミリガンという実在の人物が陥った多重人格の状態に酷似している。
こちらの物語の主人公に当たるミリガンは、ある人格になっているときには、彼の心の中に同居しているはずの他の人格とは、情緒的な反応も、行動様式も思考の赴く方向も、そして思考力も、さらには物事の価値観も変わってしまう。
しかも、他の人格が行なった行為を覚えているときにも、違和感を伴う他者の行為として捉えている。『24人のビリー・ミリガン』のなかには、ビリーの親が実際に面会しに来ても、自分の中の別の人格―すなわち、他者―の親としてみつめ、羨ましがるほどに、分裂し崩壊した人格が描写されている。(この事例を当て嵌め、シンクレールが多重人格者であるとするならば、デミアンの母親が自分の母親である可能性も生まれてくる。もちろん、そうした解釈は、ありうる可能性の一つを探るゲームのなかで言えることであり、作品読解上は意味を成さないが・・・。)
いずれにせよ、ヘッセの描いた『デミアン』という小説世界を、『24人のビリー・ミリガン』で明らかにされた多重人格的世界の描写として捉えなおしてみることは可能である。もちろん、そうした試みが豊穣な意味をもたらすかどうかはわからないが・・・・・。(たとえば、デミアンから観たシンクレールを描けば、そこには、いっそう生なかたちで一つの狂気が描き出されるかもしれない。そのような意味で、『デミアン』という小説の余白にあそぶこともできるかもしれない。『デミアン』と共に書かれていた『シンクレール』という名の小説の存在・・・・・。)
結局のところ、デミアン=シンクレールと看做すべきかどうかは、それこそ、読み手の想像力に委ねられた問題である。
***************************************************
(これにて、『デミアン』の呪縛から離れます。履歴:翌日に文章を書き換えています。)
最近のコメント