「トランスフォーマー/リベンジ」の記事加筆修正したくなったが・・・

 前回、CG技術の発展をメインテーマ、想定した観衆の年齢層についての話題をサブテーマに感想文を纏めたが、アップした後に、自分の書いた内容について割り切れない気分になった。本文に加筆修正しようか迷ったが、前回の考えも素直な観賞後の感想なので、+アルファーで簡単に付け加えることにした。

 やはり、わりきれなかったのは、遺跡破壊と米軍賛美の部分。まず、後者から。上海でNESTなる米軍のセクションに位置づけられた地球防衛軍が活躍するのは、ほんとうに荒唐無稽だが、ヨルダンやエジプトのロケシーンとなると、政治的にみても微妙な地域だけに、あれほど縦横無尽に米軍が活動するのは、観たあとに割り切れない奇妙な気分が残った。前者については、ピラミッドの中に巨大なレーザー砲のような装置が古代から隠されていたというあたりは、荒唐無稽で面白かったが、正義のためとはいえ、壁画の後ろの空間の謎を調べるために、手前の壁画を破壊してしまうあたりは、ストーリーとして、やはり、いただけない。正義のためならば、文化財の破壊もやむなしという思考のスキーマを子どもたちに刷り込んでしまうからだ。

 まさにアメリカグローバリズムの疾走感が、この映画を支える快感の源であると同時に割り切れない気分を残す原因でもある。教育的な観点から言えば、正義感の強調や協力心の賛美など、昔ながらの、基本的には奨励される筋立てもあるので、まあ、全体としては、功罪あい半ばする魅力的な映画ということになろうか・・・・。

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「トランスフォーマー/リベンジ」~目を見張るCGの技術

久々の記事アップは、軽いノリで・・・。
 出張後の夜行バス発車時間まで、うだるような暑さを避けて、映画館に入った。正直なところ、まあ映画は何でも良かった。感動を求めてではなく、涼を求めてなので、あまり重い映画は見たくなかった。そんな消極的な理由から、明らかに子ども向けに制作されたと思われる「トランスフォーマー/リベンジ」を観た。
 圧倒的なCGの量。その質の高さ。延々と続くクロマキー合成=仮想映像のリアリティー。それらは観る者を壮大な仮想世界のなかに放り込み、楽しませてくれる。
 正直言って、「度肝を抜かれる」とはこのこと。いつの間にか、変形ロボット&合体ロボットの世界は、映像技術の進歩に歩調をあわせて、ここまで進化していたのである。
 現在、好評上映中ゆえ、ネタバレを避けてストーリーは言わないが、想定した観賞者層は必ずしも、幼稚園から小学生とはいえないようだ。(幼稚園から小学校低~中学年の子どもをもつ厳しい親なら憤慨しかねないセクシャルなシーンが前半部にいくつかある。このあたりをどう捉えるべきかは難しい問題である。子どもたちは必ずしも青年や成人と同様な意味の受容をしないので、それほど気にする必要はないのかもしれない。)
 思春期の恋人達を物語の主軸に据えた背景には、( ある友人が示唆してくれたことだが、)1990年代から全米および日本で売られた「トランスフォーマー」という玩具で遊んでいた小さな子どもたちが、いまや大学生から大学卒業に差し掛かっているという時の経過が関係しているに違いない。つまり、主人公として活躍する役者自身の成長という、シリーズものが不可避的に抱える必然性に加えて、熱烈なファン層自体の成長という必然性もまた、映画制作者がストーリーを大学生活に設定した根拠だろう。
 要するにこの映画は子どもだけを対象にしたものではなく、映像の技術的な水準に対してもうるさい青年層にアピールする高品位を求めらたということだ。CGを描いたり、画像を加工したりしている彼ら彼女らを有無を言わせぬ技術力で圧倒し魅了させなくてはならない。ネット上には、それでも金属の質感等に対するクリティカルなコメントがあるが、この映画が今のCGテクノロジー、クロマキー演出の最高峰にたどり着いていることは否定できないだろう。このようなCGの映像やバーチャル世界の構築に関しては、高い技術に慣れてしまうと、それよりも劣る技術をベースにした作品は、見劣りして感じられてしまう。貨幣の世界とは反対に、いわば「良貨が悪貨を駆逐してしまう」のである。そして、きわめて有り難いことに、そのような技術水準の不可逆的な発展は、コンピュータ・グラフィックスを事実を歪めるための方法論として使う動機に対する有効な抑止力になるのである。
 この映画の制作サイドは必ずしも卓越したCGだけを「売り」にしているわけではない。実際のロケ班を砂漠やアメリカの軍演習場で組み、リアリティーを増加させたこと。本物の火薬を使った派手な爆発シーンをふんだんに盛り込んだこと。これらを観て欲しいと述べている。
 まったくその言葉どおり、それらの努力はみごとなまでに功を奏しており、荒唐無稽なこの物語にある種の緊迫感を付与しているのは、米軍の重火器の類の存在感である。

 エジプトでの遺跡破壊のシーンといい、好戦的にもみえる援軍の重火器の物量作戦といい、いささか「やりすぎ」の感が無いわけでもないが、優れた映像表現を堪能できる映画である。Mf

 ヒーロー、ヒロインを演じた若手俳優もなかなか魅力的であり存在感がある。( 主人公のサム・ウィトウィッキー役はシャイア・ラブーフ[Shia LaBeouf、本名:Shia Saide LaBeouf、生年1986年6月11日 - ]、 その恋人ミカエラ・ベインズ役はミーガン・フォックス(右図)[Megan Fox、生年1986年5月16日 - ])

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死と美と事件の臨界点―イジマカオル写真集「最後に見た風景」をもう一度眺めて

 イジマカオル『最後に見た風景』(美術出版社)は、2004年9月末日に出た写真集だから、出版されてから、もう4年と8ヶ月が経ったことになる。その写真集をもう一度眺めてみたくなったのは、新型インフルエンザの流行やその強毒化について危惧する声の高まり、そして、ミサイルで日本の大都市を殲滅する可能性を声高に叫ぶ国の暴走ぶりなどを日々聞くに及び、死というものが濃厚に練りこまれた日常を肌身に感じたからである。

 ご存知の方も多いだろうが、この写真集では、井川遙、長谷川京子、中島美嘉、加藤あい、小池栄子、夏木マリ、ともさかりえ、U A、板谷由夏、冨永愛、タニア・ドゥ・イェーガーという、今を輝く女優やモデルがとても尋常ではない死に方(殺人、自殺、急な発作、交通事故etc)で死んでいる。

 みな演技派なので、そして、何よりも生きているので、死んでいるという場面の写真も、かえって「死んだ姿」を演じているように見えてしまうのだが、よくよく凝視していると、こうした死体をある日、突然、どこかで目撃してしまうのではないかという怖ろしさを感ずる。そのうち、こういう死に方を自分もしてしまうのではないかという物凄くリアルな感覚に襲われる。他人ごとではなくなるのだ。そこまで感じてしまった段階では、女優の名前は意識の表から揮発している。無名な人が想像を絶する災難に巻き込まれ、誰に看取られることもなく絶命している映像になっている。

 おそらく、この写真集が出た4年8ヶ月前には、これら偽の死体写真を見ることで、実は、美しい女性たちの放埓な肢体・姿態をそこに眺める余裕が鑑賞者には残されていた。死は生の残照もしくはネガであり、生が極限にまで横溢したときに突如訪れる死は甘美な芳香を発する。(注釈的に言えば、その裏側にはネクロフィリア的倒錯という闇が控えているのかもしれない。)いわば、陳腐ではあるが、死とエロティシズムという古来、アーティストたちの心を捉え、女優たちを魅了した挑発的なテーマ、すなわち芸術史・演劇史の文脈でのコンセンサスのなかで許容されたモチーフを楽しむ、ある種の精神的余裕に満ちた鑑賞という位置取りが可能であった。

 ところが、今、この写真集を見ると、未来のニュース映像を先取りして見せられたような奇妙でリアルな感覚に捉われる。関西空港で今まさに入国したばかりの人間が突然昏倒したのに、感染を恐れて誰一人として近づこうとしない「現場」や、接客業の女性が早朝、店のゴミ出しをしようとしたまさにそのとき、強毒化したウィルスに蝕まれ、心臓発作で死んでしまった「現場」にみえてくるのである。つまり、意識の回転扉が、死のイメージを美やエロティシズムに案内するのではなく、現実の死が溢れている社会問題群へと私たちを送り届けてしまうのである。

 社会問題群を仮に「事件」と総称するならば、イジマカオルのこの写真集は、「事件」を倣うとともに、「事件」を予知するという新たな存在論を現代のアートが獲得していることを意味しているのかもしれない。かつて、オスカー・ワイルドは「自然は芸術を模倣する」*と言った。いま、その言葉をもじるならば、「事件はアートを模倣する」というべきであろう。もちろん、それは、時代相の激越な変転を経験する現代人にのみ、リアルに当て嵌まる言葉ではあるが。

参考:イジマカオル『最後に見た風景』美術出版社3000円+税 ISBN 4-568-12069-1

*オスカー・ワイルドの「自然は芸術を模倣する」という言葉については、その意味や出典について、谷川 渥著 『芸術をめぐる言葉』 (美術出版社2800円+税 ISBN 4-568-20162-4) が詳しい。

イジマカオルによる同様の企画に基づく写真集『20の死体のある風景』は、現在、廃刊状態のようだが、復刊を希望する声が350件以上寄せられている。いかに人気のある写真家なのか、その一端をうかがえる。また、復刊希望の声からは、イジマ氏の写真に対するおおかたの受け取lり方も窺い知ることができる。なお、この写真集での著者表記は伊島 薫である。

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渡辺恭英作品集の魅力~大分・「新潮流展」を中心に創作を続ける画家の画業の厚み

 新制作という公募展系の作家として活躍すると同時に、新潮流展(大分県内のリーダー的画家たちが集うグループ展)に継続して出品している渡辺恭英氏の作品集が届いた。

 封筒から取り出し、すぐに約70頁の画集をぱらぱらとめくってみた。「あっ」と声までは出さなかったが、大分の春季県美展(他県で言ういわゆる「県展」)に出した50号のミックスメディア作品に目を奪われた。

 「いのち 08」と題された抽象的作品は、たまご型のかたちの楕円が同心円状にグラデーションをもって描かれ、その中心に球状の核がある。その核に向けて画面上部から細い直線がすうっと挿し入れられている。もしかすると、この直線は核から上部に向けて伸びているのかもしれないが、私には核に向けて挿し入れられているように感じられる。題目と併せて、この抽象画は、透明な膜で覆われた卵子に微小な針を無機的に挿入する遺伝子操作の画像を連想させる。いろいろな診療や治療、そして遺伝子の実験のようすを説明するために用いられる「一瞬」の動画である。現代人ならば誰もが、テレビなどで一度は目にしているはずだ。

 透明なぼんやりした丸い細胞に針が進入する、あの凍えるほどの無機的な一瞬を目にしたとき、ひとはどのように感じるのだろうか。たとえ、人々に喜びをもたらす科学の進歩を表していたとしても、なにか背筋が寒くなる感覚を覚えはしまいか。

 おそらくは、その画像を抽象化した作品が「いのち 08」であろう。その意味では、ある種の挑発的な主題ともいえるテーマを取り扱っているのだが、しかし、渡辺恭英が描く卵は、実に柔らかく豊かな生命を暗示している。あの灰色の無機的な円形の皮膜ではない。暗鬱とした灰色の背景のなかで柔らかく光を発する豊かな「いのち」の象徴である。だから、なおさら画面上部から下ろされた鋭い針を暗示する直線に痛覚的な痛みを覚えてしまうのである。

 そういえば、宇多田ヒカルのEXODUSのインターネット版プロモにも、卵細胞に顕微針が触れる一瞬が利用されていた。アルバムに収められている幾つかの曲調と絶妙にマッチした画像だと思った記憶がある。インターナショナルな活動圏域で効果的な戦略を組む宇多田は、現代人ならば地域と文化を越えて関心を抱くテーマを感覚鋭く把握している。敷衍して言えば、こういうテーマを選んでいく嗅覚を渡辺が持っているということだろう。

 作品集の中から一枚の作品だけに焦点を当てて印象を綴ったが、渡辺恭英の抽象作品群はいずれも綿密な構想の下にテーマと構図が決定され、マチエールの複雑な層を自由につくりあげる卓越した技術に裏打ちされた高品位な作品ばかりである。若い方々のなかには、公募展系の作家というだけで、最初から興味を失うひとも多いように見受けられるが、そうした先入観無しに是非、渡辺恭英の作品を堪能して欲しい。

 すこし踏み込んで、美術館の作品収集の業務に携る学芸員たちに対しても言いたいことがある。渡辺の作品は大分市美術館をはじめとする大分県内の各美術館が収蔵しているが、いまだ県外の美術館での収蔵記録は無いようだ。これは残念なことといわねばなるまい。

 渡辺の作品は、現代日本の抽象画のうち世界に通用する数少ない作品のひとつである。(とりわけ、近作は生命誕生の不可思議さ、生命の倫理など、人類にとって普遍的なテーマに基づき、グローバルな課題意識に接続している点で注目に値する。)こうした作品をきちんと収集しておくことが、売れっ子の若手作家を我さきに買い求める以上に、実は重要なことだということに心ある学芸員には気づいて欲しいものだ。アートシーンの前線に居れば居るほど、なかなか難しいことかもしれないが、いろいろな先入観を取り除いて、作品の訴求力と質をグローバルな観点から厳しく見定める努力が作品収集業務の責任者には求められているといえよう。

 なお、作品集冒頭の清原保雄の解説によると、1996年に福岡市美術館で開催された「新潮流・福岡展」には会期6日で、6200人が鑑賞したという。アートの地域間交流という意味からだけでなく、メジャーな美術館が地道に創作を続ける優れたアーティストたちの活躍を伝えたという意味でも悦ばしい実績であろう。

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ブラウザをバージョンアップしたら、いままで自動的に開いていたpdfファイルが開かない! 【私の解決方法】

 artもeducationも小説も関係の無い話だが、めったに見舞われたことの無いパソコンの不調およびその解決方法について備忘録として書き留めておきたい。

 同じ症状を引き起こすパソコンの不調の原因は複数考えられる。言い換えるならば、必ずしもブラウザソフトが原因だとはいえない。しかし、おそらく、ブラウザソフトのバージョンアップ版のインストールを「きっかけ」にしていると思われる。そのような、ある種の「曖昧さ」を含むゆえ、あえてブラウザ名は明示しない。概略のみ述べるならば、インストールしたのは最もメジャーなインターネット閲覧用ブラウザソフト。大々的な宣伝のもと、無料のバージョンアップ版が提供されたものだ。

 技術的な方面に詳しい人が警鐘を鳴らしていてくれたのにも気づかないまま、迷いも無くバージョンアップをしてしまった。数日は不便も無いままに、すっきりとしたボタンのデザインを眺めて快適に仕事をこなしていた。ところが、以前ならば、サイトに埋め込んであるpdfファイルをクリックすれば簡単にacrobatが開いて、文書が読めたのに、これがうまく作動しなくなった。あなたが使っているソフトのバージョンでは開かないという指摘があった後、サイトにアクセスできなくなる現象が起きた。はじめはダウンロードにかかわるftpの問題かと誤解して、いろいろとインターネットの設定を変えたり戻したりしてみたがうまくいかない。

 使用しているacrobatはウィンドウズ版V.6.0。すこし古いのかもしれない。そのことがこの問題を引き起こしているのではないかと思い、すぐに、Adobe Reader V.9を入手してこれをインストールしてみたが症状は変わらない。そこで、苦しいときの神頼みならぬ、「教えてgoo」頼みとなった。

 ヒントをもたらしてくれたのは、ブラウザでPDFを開くときにAcrobatとAcrobat Readerを使い分けるには?」 という質問の答え。この答えにある解決法にしたがって、「Acrobat側で「PDFをブラウザで表示」のチェックを外すと共に、Reader側にはチェックを入れる」という操作をしてみたら、あれほど悩まされていた症状は一挙に解消した。

 ソフトとソフトの相性という問題は、少しでもパソコンやインターネットを扱う者なら、まず最初に用心すべきことなのに、New VersionはOld Versionの動作をカバーし保証してくれているだろうという安易な思い込みのもとに、インターネットのように多種多様なソフトが連動するものを簡単にバージョンアップしてしまった。これを契機に用心深くなりたいものだ。

 ただし、最後にすべてを覆すようなことを言って悪いのだが、もしかすると、原因ないし「きっかけ」はインストールした最新バージョンのインターネット閲覧用ブラウザソフトとは直接、関係ないのかもしれない。話が長くなるのでディテールは割愛するが、Mozilla Firefox 3.06という別のブラウザでも同じ現象に見舞われたからだ。となると、原因は最新版のReaderをインストールしたときに、通信速度などデフォルトの設定を確認しないまま、使い始めたことに求められるのかもしれない・・・。しかし、最新のReaderをインストールしたのは、あの現象に見舞われたのちのことだったと思うのだが・・・。

 まあ、素人のパソコンとの格闘顛末記として、ご笑覧ください。

(それにしても、大手のソフト開発会社が提供しているサポートやアドバイスの文章は、あいかわらず直訳調である。関係詞を用いた原文が目に浮かぶような、日本語としては悪文が多い。そして、専門用語を散りばめている。したがって、本当の意味を把握するのは至難の技だ。理解できていないことを裏付けるように、診断の流れに従って対処法が現れるところまで駒を進めても、YESの選択肢を選ぶべきか、NOとすべきか判断できないときもある。それに較べると、「教えてgoo」のパソコン相談に応える人達が書いた解説文は、実にわかりやすい。困り果てた末に解決方法を探し出した人たちだからこそ懇切丁寧な助言ができるということもあるだろうし、パソコンの仕組みの奥の奥まで精通したうえで、わかりやすく書けるスーパー助言者が活躍していることにもよる。

 この図式は数学や語学の教師も同じ。平易な言葉で教材の本質を伝えることができる優秀な教師には、克服型のタイプの教師とスマートな明晰タイプの教師がいる。同じことが、技能を伴うピアノや素描を教える芸術系教師にも言えるかもしれない。逆に、その道が好きで好きでたまらない―ある分野に耽溺し、そのことで上達し、自ずと指導を行なう立場に推されてしまっていたという場合には、人に伝えるコミュニケーションの方法に疎い場合が出てくるのではないか。教える資質に恵まれていないという事もありえないわけではないが、むしろ、知識や技能をひとに伝えるための「メソッド」の重要性に彼ら彼女らが気づかないまま、教える立場に留まることから問題が派生する。学習者の混乱をまねくのは、そうしたメソッド軽視の指導者たちだろう。―他人ごとのように書いているが、これは自戒の意味も込めた備忘録。)

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現代を風刺する寓話小説―三崎亜記の短編小説集『バスジャック』(集英社文庫)

 津田広志さんのご本についての感想から少し離れ、以前、彼が教えてくれた作家:三崎亜記の短編小説について簡単に述べたい。

 津田氏がこの作家を紹介してくれたのは、長編『となり町戦争』が出版されて間もなくの頃、たぶん2005年の春先だったのではないかと思う。まだ話題になる前に、この本に着目していたのは、さすがというほかない。編集者の嗅覚が働いたのだろう。

 この長編を読み終えて、日常の中に忍び込む戦争というテーマの斬新さに気付くと同時に、ずいぶん昔に雑誌に書いた自分のエッセイで、同様のテーマを扱ったフィッツジェラルドの短編に触れたことを思い出した。これについては、後々、書いてみたいと思う。

 さて、ここで採り上げるのは、『バスジャック』という短編集のなかの冒頭の一作「二階扉をつけてください」。知らない間に、テクノロジーの発展からも、行政の特区制度からも置いてきぼりにされた哀れな男の話だ。読み終えたあとは、これは風刺的な現代の寓話だな・・・・物事を大げさにデフォルメするという風刺的手法がスパイスとなり、奇妙な読後感だが、なんとなくあらすじを綴ったシナリオみたいだ・・・と、いわゆる「星三つ」という感じがした。

 しかし、先日、15年以上も働き続けてくれていたトリニトロンブラウン管のテレビが壊れたので、致し方なく、液晶テレビに買い換える機会があり、この見かたが変わった。やむなく購入した液晶テレビを数年前に買ったハードディスク内臓のDVD録画機と繋げる配線に手間どり、UHFと地デジのライン分岐、「分配器」と「分波器」の違いなど普段考えていなかったテクノロジーの世界に翻弄される間に、あの小説=「二階扉・・・」が頭を過ぎったのである。

 その時、困惑と動揺を覚えつつも混沌とした時代の流れに従うほか無いという主人公の気分が「リアル」に感じられた。もちろん、これと同時に、一方的に展開されている地デジへの移行について、ひどく「納得できない」気分にもなった。(よいことずくめのように宣伝される地上デジタル放送だが、実は、地上波の民放が一局しか映らなくなる地域(徳島)が出てくるなど、極端な情報格差が生まれる問題が解決されていない。)

 風刺的文学の戦略である寓話的手法は、しばしば政治的に抑圧された世界において唯一許された抵抗のスタイルである。そして、寓話がただの寓話ではなく、「リアル」に感じられるとき、私たちを取り巻く世界は、息苦しい抑圧的な世界になりつつあるのかもしれない。「二階扉をつけてください」は、そんなことを考えさせてくれる短編である。したがって、今は、いわゆる「星五つ」の評価である。

蛇足:ハードディスク内臓のDVD録画機についても不満がある。ほんの数ヶ月、購入時期が早かっただけで、「ダビング10」の利用が受けられないというのは理不尽このうえない。遡って利用の便を図る方式ゆえに、なおさらこの不満は募るばかりである。

下記をクリックすると、三崎亜記氏のインタビュー記事に飛びます。

 【インタビューに飛ぶ】

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新刊書『リ・クリエイティブ表現術 発想~チューニング~書き方』のご案内(4)

 この本のなかで、誤読してはいけないと思われる箇所が、前回も触れた「イメージをなくす」というところだ。若い世代だけでなくオールドジェネレーションもまた、パソコン=インターネット文化という湯船に浸かったまま、ものを書いたり描いたり造ったりしていると、気に入らなければいままでつくりあげたものを簡単に白紙に出来ると勘違いしている。パソコンであれば、気に入らなければ、ゼロにリセットすることは簡単だからだ。しかも、パソコン自体が不調の時には、まずリセットしましょうと推奨されたり、自らの不注意やパソコンの不調によって泣く泣くリセットを受け入れざるを得ないというかたちで、「リセット教」が知らない間にどんどん布教されている。

 しかし、しかし、いうまでもなく、物事、そんなに簡単に無化できるものではない。気に入らなければ、即自己更新ができるなんて幻想にすぎない。至福の一瞬はそう簡単に繰り返されず、善行は一度や二度行なったからといって簡単に定着するわけではない。反対に、一度ついてしまった悪癖・悪習から人はそんなに簡単に抜け出せるものではない。脳髄のどこかに行動パターンが定着したり、身体の慣性が働くのであろう。いっそう不幸なことに悪辣な行状の者ほど、リセットは難しそうだ。娑婆に出た者の再犯率の高さがそれを証明している。要するに、簡単に自分を更新できるなどという期待は文字通り幼稚な発想に過ぎない。

 一般に楽園への解脱のスプリングボードのように考えられがちな「イメージ」というものもまた、ひとを繰り返し同じ場所に引き寄せ、その牢獄に繋ぎ留める力を有するという意味では、ひとのリセット不可能性のほうに実は与している。

 しかも、自分から追い求めたものでも創りあげたものでもない外から暴力的に押し寄せてきたイメージを振り払うこともできずに、そのイメージに支配されてしまうということは誰の身にも起こりえることである。(裁判員制度批判が、犯罪現場や被害者の凄惨な写真を見せられることによって生じるこのトラウマの問題に収斂してきていることは、イメージというものの強さと怖さと、イレース不可能性に多くのひとが気付いているからであろう。)

 そのようなことをいろいろと考えると、一度捉われ、ある物事に付随するイメージをパソコン操作の流儀で無化することなんて、ほんとうはできないのだ。もう一度、リセットして書き直してみましょう・・・なんて、夏休みの絵日記でさえ不可能である。

 いっけん、リセットしてイメージを無化したかのようにみえる場合にも、それは最初のイメージから弾かれて逃走して、たどり着いた境地のことか、反対のものを探し出したか、もとのイメージの贅肉をそぎ落としたり、不純物を取り除いたことで姿を現したものに縋り就いているにすぎないのではないか。

 リ・クリエーションとは、まさにそういうイメージの無限連鎖を意味する言葉であろう。

 イメージの無化・・・・それは、誤読してはいけないと思われる箇所である。とするならば、誤読せずに、作者の思考の流れに沿って読み取るならば、それはどこから来るのだろうか。

 それは、おそらく「メディテーション」の奨め(=第二章の内容)から来ている。いろいろな先入主に捉われて、通俗的で凡庸なグレーな見かたを覚醒させるための確実なリセット方法のひとつとして、この本ではメディテーションが推奨されている。

 この文脈に着目して、本書全体を俯瞰すると、ミニマルな表現への賛辞といい、感情とのかかわりかたを示唆した次の文章といい、過剰な猥雑さを突き抜けたところにみえる「静謐な世界」を著者が志向していることが伺われる。

「まず[自分の(―引用者補説)]感情を認めてやることは、表現の第一歩です。できるだけ肯定する。さらに進んで感情の奥、感情の先にあるものも感じてみればベストです。そこに意外な発見が潜んでいると思います。悲しいと思っていたことが、ずっと感じていくとすごくさっぱりしたことだったり、うれしいと思っていたことが本当は悔しいことだったり、意外な発見があります。つまり、感情を突き抜けた場所にこそ、本当の表現はあります。そこに行き着くためには、感情を無視してはたどり着けないのです。感情を受け入れ、突き抜ける。」p.96

つづく予定 なお、上記文章は、アップしてから数日後に部分的に修正しました。

 

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新刊書『リ・クリエイティブ表現術 発想~チューニング~書き方』のご案内(3)

  前回はうがった見かたを推し進め、クリステヴァかユングか・・・・この本の著者の頭骨の柔らかい脳髄の闇の奥を勝手気ままに詮索し、そのニューロンの触手をあたかも、机上の空中戦のごとくに描写してしまったが、おそらくは、もう少し包括的なアートの論理に立脚した発想が根底にあるような気がしてきた。そうしたアートに関する包括的な捉え方として想い起こされるのが、ハーバート・リードである。ここでまたまたうがった見かたを掲げておきたい。

 ハーバート・リードの『芸術による教育』の新訳出版については、フィルムアート社の記念碑的な学術貢献事業といっても過言ではないが、この編集については津田氏もかなり深く関わったと思う。そういう意味では、リードの考え方を彼は知っており、(現代思想の観点から『芸術による教育』を批判的に読んでいたとしても、) リードが展開した創作原理については、興味を覚えたに違いない。おそらく、このたび上梓された『リ・クリエイティブ表現術 発想~チューニング~書き方』は、リードを踏まえた「表現術」なのではあるまいか。それは、臨床的な世界観を踏まえたいろいろな流派の思想のどれかに強く影響を受けたというよりも、より包括的な心の世界と表現のかかわりを見据えた批評性を根拠に、表現論を展開したということと、ほぼ同じ意味なのかもしれない。「トラウマを大切に」といった発想法にそれが滲み出ている。

 そのうえで、やはり、この本は編集者の思想が露骨に表れた、刺激的な表現論であると思う。

 「イメージをなくす方法」(106-107頁)というくだりが、私には編集者の視点だと思えた。写真家の岡田敦の『I am』の対象への迫り方が、傷ついた者への陳腐な共感論を超えた地平にあることを指摘した後に、津田は感情に彩られた常識を超えることを提唱している。

 「悲しいものを悲しく見る、それは常識です。かわいそうなものはかわいそうだという目も常識です。反対に、表現とは負からエネルギーを借りて途方もない別のものに変えてしまう。もし私たちが、負の感情を感じたら、それを放置しておくのは苦しいだけです。自己反省をするよりも、表現し、世界を再構築していくこと。」

 編集という仕事と表現という仕事を往還する運動は、常識的なものの見かたの中に重い澱のように沈殿する暗いどうしようもない活性度ゼロの感情に、外側から電撃を加えるのか、その活性度ゼロに見えた澱そのもののひときわ重い質量をエネルギーとして認めるのか、つねに悩まざるを得ないプロセスであろう。

 たしかなことは、名編集者が、どんなにチャーミングな裁断とデフォルメとチューニングと共同創作といった高度な編集作業を施しても、書き手が自らの経験や知識を突き放して見ることが出来ずに、常識の範疇にとどまるならば、魅力的な文章も思想も生まれないということだ。

 しかし、経験と知識をたくさん持てば持つほど、それらの財産のかたちに書き手自身が絡め取られ、身動き取れなくなり、同語反復を繰り返すことが多くなる。斬新なかたちに見えても、何年間も同じ思考法を繰り返していれば、その思考法はすでに社会のなかで消化され、陳腐化している。つまり、常識になってしまうのだ。

 結局のところ、書き手が自らを更新し続けなければ、編集者が煽てようが励まそうが、何も変わらない。事態は進展しないのだ。すなわち、書き手には、ながらく自分が携えてきた自己にかかわるイメージさえも無化する努力が求められている。「イメージをなくす」とは、そういうことであろう。

 しかし、その自己更新は、実は活性度ゼロに感じられる自分の経験や知識という逃れ難い内部の澱―それは一見、きわめて陳腐でマイナス志向で、どうしようもないガラクタにみえる―を意識的に増やし続け、自分というものを支えている精神的な底蓋を突き破るという内部の格闘からしか生まれない。そのことについては、編集者よりも書き手がいつも先に気づいている。

つづく予定

 

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新刊書『リ・クリエイティブ表現術 発想~チューニング~書き方』のご案内(2)

編集者の思想

 新刊書『リ・クリエイティブ表現術 発想~チューニング~書き方』(新水社・2009年3月1日出版・13桁ISBN 978-4-88385-115-7)がとりわけ興味を惹く点は、アートや映画などの芸術、それにセルフ・エデュケーションといった広義の教育までをも自らの戦地と看做した百戦錬磨の軍師自身が、ただ一騎で、現代の戦線拡大した戦場を駆け抜けようとする志の高さ、その無謀ともいえる企画にある。

 いままでも名編集者が小説家や詩人やエッセイストに転身したり、兼業を続ける例は無数にある。アート系の編集者が批評家に転身する例もある。しかし、それは人伝に聞いた噂の類だったり、文学史に残る大きな話だったりで、あまりリアリティーが無い。

 その点、津田さんは、間近にお姿を拝見しただけでなく、私自身、編集という一種の教育、一種のブートキャンプ式特訓を受けた者の一人として、親近感を覚えざるを得ないリアルな人間だ。

 冒頭のグダグタはこのくらいにして、この本から、露骨に表れた編集者の魂を摘出してみよう。(いわゆる「書評」を行なわない理由は、まだ一冊すべてを読み上げていないということもあるが、そのような関心―つまり、編集者によって書かれたということ―から「部分」を拾い上げたほうが、本書の性格がよく伝わるように思えるからである。)

 一番、編集者らしいくだりは、彼の「個性」観が剥き出しに表れた98~99頁「私らしくとは?」という項目のなかの一部分である。

 津田は言う。

 「・・・[前略]「私らしくある」とは「私らしくないもの」に含まれている可能性が考えられるのです。あまり認めたくはないが、「私らしくないもの」をあげていくとどうなるでしょうか。たとえば、自分は優しくはない。破壊が好き。私はガンコだったとします。それをもっと感じてみる。」

 メビウスの輪やウロボロスの図を想起させる謎賭けのような言葉だ。個というものが分割されない最小単位の「個」性であり、その集合体としての目くるめくような多種多様な組み合わせが魅力的な社会を創り上げるというような、理路整然とした楽観論とは地平を異にするカオスの世界の個性論・・・そんな感じだ。

 なんだか、一時期全盛だったジュリア・クリステヴァのアブジェクシオンという考え方に近い気がする。認めたくない自分の出自と、その自分を産み落とした母なる存在の根源的奇跡と現象的通俗性。

 自己理解に際して、日常次元では不必要な負荷となるはずの、出生から現在までの「自分史」を自覚的に引き受けること、それが新たなる個性の開示につながるという構図を引用箇所から読み取るのは、あまりに強引というべきか。案外、図星か。

 上記の津田の文章は、次のような文に続く。

「ただそれだけですといかにも悲しいかもしれません。次にそれを私なりにアレンジし解釈、変形、構成していくこと。自分らしくないものが、本当はどこへ向かおうとしているのか、感じてみる。」

 何行か措いて、次のような結論めいた言葉が来る。

「自分自身になりきるとは、「もうひとりの自分」を受け入れ、それをよい方向に向ける作業ではないでしょうか。私らしさとは、私の中にある他者(私ではないと思われるもの)との出会いなのです。」

 アレレ・・・これは、クリステヴァじゃなくて、陰陽和合の象徴=ユングなのかな・・・と若干、こちらの見立ての不確かさを覚えつつも、「私なりにアレンジし解釈、変形、構成していくこと。自分らしくないものが、本当はどこへ向かおうとしているのか、感じてみる。」という津田のフレーズを大胆に私流の特殊構文解読技法で、「自分らしくないものが、本当はどこへ向かおうとしているのか、アレンジし解釈、変形、構成していく(作業空間の仮設)」の必要性という意味へと、文意をデフォルメし、方向をずらしてしまうと、それはクリステヴァが漸進的に近づいた、間テクスト性の問題に近づいてくる。

 まあ、そのように文章を弄り、隠された意味を探究したくなる最大の原因は、この本の著者が、「私」と「私の表現」を結ぶアモルフな相同性に対して「亀裂」を入れようと試みているからであろう。

 「私私の表現」の間に開いた「亀裂空間」にこそ、(誰もが獲得可能な)編集者という他者性が宿る。もちろん、その他者性もまた、自分の内部から生まれた抑圧された過去、隠蔽された欲望に過ぎない。このような個性論の思想的な背景が、どこにあるのか―ユングなのか、クリステヴァなのか―突き止めるのは難しい。しかし、私には、そうした発想には、明らかに編集者の意識が浸透しているように思われる。

つづく予定。

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新刊書『リ・クリエイティブ表現術 発想~チューニング~書き方』のご案内(1)

名編集者 津田広志の世界を覗く

以前、仕事でご一緒させていただいたことがある著者から新刊書が献呈された。その著者とは、フィルムアート社の名編集者である津田広志だ。

帯には「うまい、きれいがすべてではない。本当に感動する表現とは、たとえ形が少しおかしくても、心にぐっと響いてくる何かがあります。では、どうしたらその響きを表現できるのでしょうか?」とある。

感動/表現/形/響き という魅力的な文章表現には不可欠な要素が盛り込まれた欲張りな本だということが、この帯から伝わる。

しかし、これは経験豊富な編集者が渾身の力を尽くして書き上げた種類の重厚長大な本ではない。むしろ、軽やかさを極限まで追究した、「見せない努力」の結晶ともいうべき本だ。その印象を次回以降綴ってみたい。

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クリスティーナ・アギレラ讃  ( I recommend Christina Aguilera )

 楽しい仕事もつまらぬ仕事も、仕事という仕事が立て込んできて、目の前に様々な書式の原稿や事務書類が積み上げられてきて、にっちもさっちも行かなくなり、思考さえも錯綜しはじめたときに、なぜか手に取るCDがある。それが、クリスティーナ・アギレラの"Christina Aguilera"というアルバム。ボーナストラックが収録されていないので、輸入版を買ったのだと思う。(収録曲は、1.Genie In A Bottle 2.What A Girl Wants 3.I Turn To You 4.So Emotional 5.Come On Over (All I Want Is You) 6.Reflection (from "Mulan") 7.Love For All Seasons 8.Somebody's Somebody 9.When You Put Your Hands On Me 10.Blessed 11.Love Will Find A Way 12.Obviousの12曲。)

 このCDを買ったのは、今から約9年前の1999年の終わり頃だと思う。購入の動機は単純きわまりない。たまたま視聴したNHKの歌番組「ポップジャム」に小柄なアメリカ版コギャルの雰囲気の少女が登場し、その見かけの印象とは裏腹に物凄い歌唱力で朗々と持ち歌"What A Girl Wants (Remix版)"を歌いあげた。独特なビートが効いたその哀愁を含んだR&Bの曲調も魅力的であったが、なによりもその歌唱力に驚愕し、数日後にCDショップで購入した記憶がある。

Christina

 その姿は原宿に遊びに来た18か19歳のアメリカの女の子という感じなのに、抜群の歌唱力―こういう、みかけ倒しの真逆のありさまをなんと言うのだろうか・・・・、見掛け倒しの歌手ばかりが多い日本の歌番組のなかで、見かけはコギャルそのもののアギレラがひときわ光り輝いていた。ひとというものは、ほんものに出会うと声も拍手もいっさいの反応を失うものらしい。その日の公開収録会場であるNHKホールに集まっていた聴衆の若者たちは、まだ無名であったこの歌手がこともなげに素晴らしい歌を完璧に歌い上げたとき、一瞬、水を打ったような静けさで迎えた。唖然という感じだろうか。その直後に割れるような拍手が押し寄せた。ブラウン管で見ていても、臨場感を感じる一瞬だった。

 さて、なぜ、仕事が立て込んでくると、このCDを手にとってしまうかという話題であるが、仕事の多忙感とこのCD選択の関係性は、自分でもよくわからない。確信は持てないものの、癒しのベクトルとは反対の、何か活力が補填されるような効果がアギレラの歌にあるようだ。

(コギャルという言葉が死語なのかいまだに流通しているのかわかりませんが、いずれにしても、コギャルに歌唱力が無いなどという偏見はありません。派手なメークをした「アメリカ版コギャル」にみえた一人の少女が、いきなりプロフェッショナルな歌唱力を披露したので、すっかり驚いてしまったという趣旨。コギャルにidentityをもつみなさまへあらかじめ釈明しておきますね。)

Christina2_2

参考1:クリスティーナ・アギレラのファンサイト

http://www5b.biglobe.ne.jp/~wantan/ca/index.html

参考2:日本での本格的なプロモーション開始の1999年記事

http://www5b.biglobe.ne.jp/~wantan/ca/news/news1999.html

参考3:Wikipediaにクリスティーナ・アギレラの項目があり、生い立ちなどが書かれています。

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同窓会に参加して

 正確に言えば、同級会(同窓会の一種ということで・・以下、同窓会と書きます)に参加してみた。あいかわらず、紅ばかりのなかに白パラパラの状況。やはり、男性陣の劣勢は免れない。

 教育学部の美術科というところは、もともと女性が多い。(後から知ったのだが、芸術学部の美術コースも同じらしい。文学部の美術史科も美学科も同様だ。日本の美術関係のベースは女性がつくっているといっても過言ではない。)同窓会を企画する名幹事が纏めてくれた名簿をみると、27人同級生がいた。そのうち、7名だけが男性。

 自然と男だけが群れる状況が生まれ、何をするのにも行動を共にしていた。そういう状況が崩れ始め、気が合う仲間同士に纏まっていくのは、時期でいうと、ゼミが始まる三年後期あたりから・・・。それほど、大学のゼミというものには結束力が働く。もう一つの要因はゼミとも絡む事柄だが、恋愛・友愛によるカップルの成立。こういう事の成り行きは、今も昔も変わらない。

 待ち合わせ場所の湯河原駅前に時間より少し早めに来て、改札のほうに目配りしていたのは、科内でめでたく結びつき今も幸せに暮らしているカップルのうちのお一人。ご夫君は仕事が忙しくて不参加とのこと。

 当日参加予定のうち、駅前集合組の残り5人が姿を現すまで、改札前でこのお方の近況を聴いていた。その話が興味深いものだった。

 彼女のお知り合いの方の車が突然、炎上した! 数日前の話である。衝突事故でもなく、整備不良でもない。はじめは何かが焦げる匂いとわずかな煙。そのうち、出火して、あっという間に車一台が完全に炎上してしまった。匂いと煙という出火の前兆段階で車から離れた知人は無事だったという。爆発はしなかったものの、危機一髪とはこのことである。まるで菅野美穂が出ている不可思議な事件を扱うテレビ・ドラマのような話だ。

 被害にあわれた知人の方は、すぐに警察を呼んで現場検証となった。原因は、何ヶ月か前に車に同乗した誰かのポケットから転がり落ちた、ワンプッシュ着火型のライターであることが判明。運転席の下にある座席をスライドさせて位置調整するためのレールの溝に、このライターが挟まっていた。その日、彼女の知人が無意識に座席位置を調整したとき、ライターのプッシュボタンが押されて着火。いまの車は、不燃性のシートなど安全性は確保されているはずなのに、破損したライターから中身の液体(液状ブタン)が漏れ出し、よほど大きな炎でも出たのだろうか、車内の何かに燃え移り、火災につながったのだという。めったにない事故だろうが、誰にでも起き得る身の毛もよだつ話ではないか。

 話題がショッキングなだけに勢い込んで話してくれたわけだが、後で思い返してみると、彼女とは学生時代の四年間、ほとんど話した記憶が無い。奈良に二、三回旅行した七、八人の小さなグループにも共に加わっていたはずなのに、なぜ話したことが無かったのだろうか。(二人とも不登校でもなければ、存在が希薄だったわけでもない。澄んだガラス玉のような茶褐色の瞳が印象的な奇麗な顔立ちの彼女には、今も昔もなにか凛とした存在感が漂っている。私もドジが多いという不名誉な意味での存在感はあったかな・・と思う。)存在感のあるなしにかかわらず、普通に世間話さえしたことがなかったことが解せない気がする。いずれにしても、同窓会の待ち合わせ場所での十数分間のほうが、大学の四年間での総会話時間よりも長いとは、ほんとうに不思議なことだと思う。

 無理やり一般化したいわけではないのだが、学生時代というものは、勝手な思い込みかなにかで人間関係を築いてしまう傾向があるのではなかろうか。ちょっとしたきっかけで、よかれあしかれ何か先入観を抱いてしまったら、そのあとは、もう先入観というベール越しにしか人を見なくなってしまう。そんな性急さが若者にはついて回る。そういう軽率な判断が働かなければ、あるいは茶褐色の澄んだ目をした彼女とも、もう少し話す機会があったのかもしれない。

 しかし、もう一度、摩訶不思議な霊力で時間を遡り、同じメンバーで四年間を過ごしたとしても、やはり、同じ成り行きになっていたようにも思う。そして、結果から言えば、何度繰り返しても、そのほうがよいのだろうと思う。(この問題、ニーチェのように思い詰めると錯乱しそうな深遠さを含んでいる。)

 辛酸を舐めた四年間だったようにも思うが、楽しい試行錯誤であったようにも思う。そう思いながらも、宴席で思わずなにかぼやいていたのだろうか。遅れて同窓会に加わっていた同性の親友が、「まあ、ぼやくなよ、今が良ければいいんじゃない?」と、学生の頃から変わらぬ笑い皺を目尻につくりながら、勝手に究極的総括をしてくれた。

 帰路同じく、上りの東海道線に並んで座って、しばしば「美育文化」に依頼投稿で掲載されていた彼の名文のことなど思い出しながら昔日の話をした。その車両から藤沢駅で降りる彼が無造作に手渡してくれたのは、文庫本の『マイルスを聴け!』。彼のダンディズム、健在、そして、このうえなし。

参考1:中山康樹著『マイルスを聴け! 』双葉文庫 ISBN-13: 978-4575711745

参考2:湯河原温泉広報サイト:

http://www.yugawara.or.jp/

参考2:ライターと車の火災関係の記事 および 関連Q&A

 
http://allabout.co.jp/living/bosai/closeup/CU20010420/index2.htm

http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa3491918.html

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ご案内:大塚国際美術館企画展 「熱き心展~寛斎元気主義~」 (山本寛斎作品展)

「熱き心展~寛斎元気主義~」 2009年1月10日(土)~3月29日(日)
ジョン・レノン、デヴィット・ボウイ、山口小夜子、世界のスーパースターを魅了した山本寛斎初の作品展が3月29日(日) まで開催されています。 下記イヴェントも好評です。詳しくは大塚国際美術館のホームページでお確かめください。

開催記念特別イベント
山本寛斎スーパートークライブ~迫力の映像と熱いトークの70分~
日時:1月10日(土)13:30~14:40
    2月7日(土)13:30~14:40
    3月7日(土)13:30~14:40
場所:B3Fシスティーナ・ホール
参加費は入館料に含まれます。

主催:大塚国際美術館・山本寛斎事務所
共催:四国放送・FM徳島
後援:徳島新聞社・NHK徳島放送局
協賛:㈱阿波銀行・日亜化学工業㈱・田崎真珠㈱・大塚製薬㈱・㈱大塚製薬工場・大鵬薬品工業㈱・大塚ベバレジ㈱・大塚化学ホールディングス㈱・アース製薬㈱
㈱寛斎スーパースタジオ
製作協力:アートディレクター 戸田正寿・メイク 村井和章

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「ライオネル・ファイニンガー展」の記憶(2008年積み残し展覧会感想)

 2008年10月17日から12月23日まで愛知県美術館で開催されていた「ライオネル・ファイニンガー展」について簡単に振り返ってみたい。(2008年10月5日までは横須賀美術館で開催されており、2009年は1月10日から宮城県美術館で開催されているはずである。)

 ちらしの冒頭1行目には、「20世紀の知られざる巨匠、ライオネル・ファイニンガーの日本初の回顧展です。」と明快な案内が掲載されているが、ファイニンガー(Lyonel Feiniger、1871―1956)の名前は美術愛好家やデザインの基礎を学んだ者にとっては「知られざる」というほど無名ではなく、記憶によって編まれた名士録に記入済みの名前であろう。あのパウル・クレーやカンディンスキーが教えたことで有名なバウハウスについては、バウハウス展ばかりではなく美術教育とのかかわりでヨハネス・イッテンやモホリ・ナジー[モホリ・ナギ]までもが企画展として採り上げられる機会が増え、徐々にではあるが、その運動の輪郭が多くのデザイナーや一般の美術愛好家に把握され始めている。バウハウスにかかわるそのような知識の広がりのなかで、ファイニンガーがバウハウスにかかわった画家であることを知っている者は多いであろう。

 ただし、ファイニンガーの絵がどのようなものだったのか、はっきり思い出せるひとは少ないかもしれない。その理由は、どの作品もきわめて水準の高い創造的な仕事でありながら、逆説的な表現になるが、その均一な質の高さゆえに代表作というものが見当たらない。いや、もう少し正確に言えば、代表作といえる幾つかの作品―たとえば、<海辺の廃墟>(1930年)、<夜の聖マリア教会、ハレ>(1931年)、<赤い服のバイオリン弾き>(1934年)―はあるのだが、主題・描法ともに同様の優れた小品が幾つもあり、際立った成果の集成という捉え方で代表作をみることがしづらいのである。

 このような言い方は否定的に聴こえるかもしれないが、けっしてそうではない。数点の作品が象徴的に輝くということは、一人の作家が時代の寵児として流行の波に乗るためにも、時代を切り拓いたエポック・メイキングな創作者として、美術史の金字塔に刻まれるためにも有利なことにちがいない。しかし、それはその画家の画業の営みの持続力や真摯さを物語るバロメータとは所詮異なる事柄である。

 ファイニンガーは質の高い小品を描き続け、持ちかけられた話や自らの関心が赴くままに、軽やかに漫画や風刺画を描き、愛らしい木製玩具を作成した。このことは、この画家の利発で魅力的な人柄を髣髴とさせるだけでなく、描き続けることによってのみ保証される「画家の知性」というもののあり方と、活性化した知の持続を示唆している。

 初期には、短期間滞在したパリの街の裏通りの猥雑さに魅了され、悲哀と風刺が漂う作品をいくつか仕上げている。このようなプロムナードへの執着や木製玩具を通して垣間見ることができる子どもへの愛情、さらに漫画に見られる風刺の強度・・・こうした一連のことがらを踏まえ、珠玉の(どちらかといえば)小品を幾つも残したファイニンガーの仕事ぶりを加えてみると、ジャンルは違うが、約20歳年下で16年早く亡くなってしまったヴァルター・ベンヤミン(Walter Benjamin、1892―1940年)を連想してしまう。時代の波頭に身を置きながらも、持ち前の風刺精神、すなわち諧謔という覚めた批評精神ゆえに、その流れに合わせてサーフィンすることもなく、賢者であり続けるという矜持のみを頼りに誠実な仕事を残したという点でも、この画家とあの思想家は似ているように思えてならない。

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アクセス数五千件御礼申し上げます

 細々と続けてきた記事のアップに5000件のアクセスがありました。まことにありがたいことと存じ、みなさまに心から感謝申し上げます。

 お師匠の展開する「オサムの映画日記」が樹立している5万4千件のアクセス記録には遠く及ばないものの、断続的で放置数ヶ月といういい加減な記述形態にもかかわらず、ともかくも閲覧数がこの数になりましたこと、嬉しく存じます。

 簡単ですが、御礼を申し上げます。また、なおいっそう意味のある情報を盛り込んだ内容に刷新していくつもりですので、ひきつづきご愛顧をお願い申し上げます。

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「アンドリュー・ワイエス―創造への道程(Andrew Wyeth:Emotion and Creation)」展の記憶3(2008年積み残し展覧会感想)

 物語にならぬ物語の主人公たちとは、ワイエスによって見出され、モデルとして選ばれ、執拗なまでにその人生をチェイスされ、ワイエスの卓越した描画技術によってもののみごとに画布にその姿を定着された人々である。

 前回、世界のどこにでも暮らしていそうな市井の人々・・・と述べたが、モデルになった彼ら彼女らは、庶民とか市民という語感が指し示す陽気で気楽な存在でも、政治的な意識を核に持つ存在者でもない。よく知られているように、<クリスティーナの世界>に描かれたアンナ・クリイティーナ・オルソンは手足が不自由で移動さえもままならない。その弟のアルヴァロ・オルソンは、妹を手助けしながら痩せた土地でも栽培可能なブルーベリーを植えて生活の糧としている。この姉弟がメイン州の物語に描かれた人々だとすれば、ペンシルヴァニアの物語の登場人物は、ドイツからこの地に移り住んで暮らしているカーナー夫妻(カール・カーナー&アンナ・カーナー)と、ヘルガ・シリーズという連作的蓄積のモデルとして有名なヘルガ・テストーフである。カール・カーナーは第一次世界大戦のときドイツの狙撃兵として従軍し、鉄十字勲章を受章し、その栄光の記憶としてシュタールヘルムと呼ばれた(テレビドラマ/コンバットなどでも見られる第二次大戦までドイツ兵が被っていたのと同型の)鉄製ヘルメットを大切にしている。渡米後もドイツでの栄光から離れられない、すなわち、ある意味でトラウマともいえる過去の呪縛から離れられない農民である。妻はそれを忌まわしい過去の記憶の品として扱い、微塵の経緯さえ払わない。カール夫妻は、いわば記憶の呪縛に苛まれる人々である。ヘルガの人生に関する記述は少ないが、やはりドイツからの比較的新しい移民(1960年頃渡米)である。ヘルガについては、秘密のベールに被われていたことが、逆説的にある種の闇の存在を暗示しているように思えてならない。彼女は15年以上もの間、数多くの裸婦像を含む240点もの作品のモデルを務めたが、ワイエスはヘルガをモデルとして描き続けたあいだ、一度もその作品を公開しなかった。そればかりではなく妻ベッチィにさえ膨大なヘルガ・シリーズの存在を隠し続けていたのである。

 生きることの苦しみや耐え難さを一身に受けとめながら、黙々と労働し、日々を過ごす受苦の存在者をワイエスは選び、諦念にも似た表情を克明に描写している。それらはシジフォスの神話や賽の河原という「徒労」の喩えよりは逞しい「生活」の息遣いを伝えてはくれるが、永続する苦しみの底は深く、まさに物語を構成する人称性を超越している。あたかも、それらは非人称的な魂を癒し鎮魂するために描かれたかのようである。

 具体的には、アルヴァロ・オルソンを描いた1945年の作品<オイル・ランプ>、人の姿は描かれていないがカール夫妻を暗示する1976年の作品<松ぼっくりの男爵>、ヘルガを描いた1979年の<ページ・ボーイ>などの作品が上記の感想と関連している。それらはいずれも傑作であり、この展覧会の白眉の作品である。

 

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「アンドリュー・ワイエス―創造への道程(Andrew Wyeth:Emotion and Creation)」展の記憶2(2008年積み残し展覧会感想)

 Bunkamuraで開催された「アンドリュー・ワイエス―創造への道程(Andrew Wyeth:Emotion and Creation)」展は、ワイエスが主題として選んだ風景や人物が存在する二つの土地に従い、二つのパートに作品を整理して並べていた。

 一つは、ワイエス家が夏を過ごす別荘があった北部メイン州の海辺の町ポート・クライド周辺、もう一つは生まれ故郷のペンシルヴェニア州チャッズ・フォードの丘陵地帯である。通常、著名な画家の多くはさまざな土地に旅をし、人生の軌跡においてもいくつかの土地に移り動く。時系列に沿って展示すれば、その画家の視点の先にある風景が変わり、交友の範囲が変化する。内面の軌跡もまた時系列に沿って展示されたほうが観る者にとって掴みやすい。

 ところが、ワイエスの場合には、ほとんど全ての作品がメイン州の海辺の町とペンシルヴェニア州チャッズ・フォードという二つの土地から着想を得て、そこで制作されたものなのである。となれば、時系列的な展示構成よりもロケーションに基づく展示区分も頷けるだろう。しかし、この二つの土地に分けて区分する方法には、もう少し、深いわけがありそうである。

 日々の糧を獲得するために土地に縛られる生活者とは異なり、自由に画題を捜し求めて何処にでも移動できるアーティストの場合、たった二つの土地にへばりつくようにして制作を続けるということは、そのこと自体がポート・クライドとチャッズ・フォードという固有名詞を持つ、この土地への執着の証である。この土地の何かがワイエスを魅了し呪縛したのだと考えるほうが理に適っている。

 二つの土地がワイエスを魅了した第一の要素はそれぞれの土地の気候や風景等どちらかといえば自然の要素である。図録にはそれぞれの土地について、そして、その土地で生まれた作品についてワイエス自身が述べた言葉(下記)が掲載されているが、その言葉こそがこの第一の要素を如実に物語っている。

メイン州について 「クモの巣のようにたよりなく、色は淡く、風は強く、時々霧がかかったりする。まるで屋根裏部屋でひび割れた骸骨が、かたかたと音をたてているような印象がある。」

「私にとってメインはまるで月の上を行くようなものだ。月の表面でふわふわしているものがさっと吹き飛ばされてしまうように感じる。メインでは総てのものがものすごい速さで衰退していくように思えるのだ。・・・・・・北のメインでは、総てがからからに乾燥した骨や、干乾びた肉体のようなものに感じられる。」

ペンシルヴァニア州について 「ペンシルヴァニアには、土や大地の奥深くにあって見えないがしっかりとした土台がある。」

(ペンシルヴァニアの冬について)「私は季節の中でも冬や秋が好きだ。風景の中にある骨組みや孤独感、死に絶えたような雰囲気が感じられる。何かがその下に隠れていて、物語の全ては明らかにされていない。そんな気がするのだ。」*

 大雑把に見れば、どちらの土地も広大かつ荒涼とした大地であり、頬を打つ過酷な風が荒れ狂うような寒々とした風景であるが、比較してみれば、やはり両者の違いも目に付くはずである。メイン州ポート・クライド周辺で描かれたワイエスの風景には、海辺の町に住んだ者ならば誰もが知っている、海に近い土地特有の気まぐれな日差し、すなわち、ひとを思考停止に陥れるような無邪気であっけらかんとした強い日光とすぐに翳りひとを不安に陥れる曇り空がもたらす光の交錯がもののみごとに描かれている。それに対して、ペンシルヴァニア州チャッズ・フォード近郊の風景画には、澄み切った透明な大気がもたらす独特な寂寥の感覚が横溢している。

 このような対蹠的な土地を行き来することによって、自らの感覚を研ぎ澄ますとともに、アメリカの自然に潜む魅力を描き出すことに夢中であったワイエス。彼にとってはこの土地での制作だけで十分なのであり、他の土地を彷徨う必要など微塵も感じられなかったのであろう。

 もう一つの要素は、それぞれの土地で自ら進んで編み始め、編み続け、編み終えた物語(群)の存在である。それぞれの物語は、その土地固有の民話や伝説でもなく、いま始まろうとするその土地の発展の物語でもない。彼が注目するのは、世界中、どこにでも暮らしていそうな市井の人々の変化の無い、物語にならぬ物語である。ワイエスが編み始め、編み続ける物語とは、英雄譚などとは無縁な、岩場の牡蠣殻か打ち捨てられた道標のようにその土地にへばりついて暮らす人々との出会いと交友に過ぎない。

 メイン州ではオルソン家の姉弟(姉は、あの有名な<クリスティーナの世界>に描かれているクリスティーナ)およびシリ・エリクソン、ペンシルヴァニア州ではドイツ系移民であるカーナー夫妻やヘルガ・テストーフとの出会いと交友が、その土地固有の物語となっている。

 物語というものの要素に、起承転結的な変化の相というものが必要不可欠なものだとするならば、ワイエスが編み始め、編み続けた物語とは、物語の条件を欠いている。来る日も来る日も土地に縛られたモノトーンの日々を労働と束の間の休息の交代という単純なリズムの中で過ごす人々のなかの物語とは何なのか? 

 物語にならぬ物語を編み始め編み継ぐという不可能あるいは矛盾を模索する過程で生まれたひとつの世界―この画家の独自性と魅力は、解決不能な課題を引き受けたにもかかわらず、市井の人々が発する強烈な存在感が画家の目論見を越え、画家を圧倒したところに創りあげたひとつの世界に因っているのであろう。その意味では、ワイエスの画業とは図らずも人生の意味を問う思索に限りなく接近しているといえるのではあるまいか。

*出典 「アンドリュー・ワイエス―創造への道程」展 図録 発行:愛知県美術館/中日新聞社 2008年

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「アンドリュー・ワイエス―創造への道程(Andrew Wyeth:Emotion and Creation)」展の記憶1(2008年積み残し展覧会感想)

 2008年11月8日から12月23日まで渋谷Bunkamura―ザ・ミュージアムで開催されていた「アンドリュー・ワイエス―創造への道程」展を見た感想を記憶が風化する前に備忘録として綴っておきたいと思う。(この展覧会は愛知県美術館、福島県立美術館に巡回予定。)

 特に好きな画家という意識は無いのだが、画集を捲らずともなぜか幾つもの風景や人物の姿がすぐに記憶庫から脳内スクリーンに呼び出すことができる。水彩や油彩に描かれた荒涼とした風景や冷え冷えとした室内で緊張する裸婦の構図や色彩までもがエンボス加工のように記憶に刻まれている。それだけ、自分にとってインパクトの強い画家だということだろうか。

 そういえば、ワイエスの伝記的内容をヘルガシリーズを絡めてまとめたビデオを埃を払ってたまに見ることもあるし、かつてリブロポートが出版したヘルガ・シリーズの画集もたまに頁を繰って見ることもある。(前者のビデオは、チャールトン・へストンが解説役を務めており、彼の表情だけでなく、吹き替えの声の調子までもが、ワイエスの静かな画風とは対照的に、異様な程、尊大であり同時に社会問題を告発する調子なので、そのためになんだか再生して見るのが苦痛なものとなっている。)こうして、ときどき見たくなるというのは、客観的に言えば、好きな作家の範疇に入るのではないかと自問してみるが、「何か」が引っかかって好きな作家とは言えなかった。その「何か」とは、なぜ、彼がこの絵を描いたのかその必然性のようなものが、いくら画集やビデオの解説を読んだり聴いたりしても切実に伝わってこないもどかしさだったのかもしれない。

 ところが、今回の展覧会でそのもどかしさは―完全にとはいえないものの―解消された。

 今回の作品展ではワイエスが制作活動を続けた「土地」に焦点を当てて、展示構成がなされ、しかも、完成した作品だけでなく、彼の創作過程が手に取るようにわかるようにスケッチや下絵が数多く展示されていたために、ワイエスという作家の創作意欲を発動する根底に潜む好奇心や興味の核が生なかたちで露出していたからである。その意味で、「創造の過程」という展覧会副題も、Emotion and Creation という英文副題も、きわめて正確にこの展示の性格をよく表している。

 今回のワイエス展に限らず最近の企画展には、観る者に何をどのように見せていくかという展覧の本質問題に立ち返り、緻密に検討し果敢に踏み込んだ努力のあとが展示構成からうかがえるものが多い。どこかの美術館の収蔵作品をそのまま借り受けて飾り、あとは観る者の判断に任せるのが美術館の良識であるとするような、良い意味ではストイック、悪く言うならば展示というものの創造的意味がみえていない展覧会は、むしろ少数派になってきた観さえある。

(この展覧会に関わる記述が少ないが、今日はここまで。)

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面白いブログ記事発見!! 宇多田は、ときどきキラリとヒカル―自己探求の楽しみ方

 コロンビア大学でニューロサイエンスを志し中退したという経歴をもつ理科系の頭脳の持ち主宇多田ヒカルだが、自ら「☆とにかく文学は永遠に私の情熱であるでしょう!!本は財産です。読んだ本は全部とっておく。服より本の占めるスペースが多い。」と公式プロフィールで述べるほどの文学好き。愛読の作家として公言しているリストには、開高健・宮沢賢治・中上健次・芥川龍之介・川端康成・森鴎外・夏目漱石・三島由紀夫・稲垣足穂・谷崎潤一郎・埴谷雄高・ヘルマン・ヘッセ・ドストエフスキー・大岡昇平・遠藤周作・Roald Dahl・Oscar Wilde・Shel Silverstein・Edgar Allan Poe・Elie Wiesel・John Berendt・F. Scott Fitzgerald・George Orwellと、洋の東西を問わず文学の巨匠がずらりと並ぶ。

 専門のジャンルである音楽はもちろんのこと、映画、上記の文学とアート一般に造詣が深い宇多田だが、美術方面に関しても並々ならぬ表現力と鑑賞力を持っていそうだ。

 最近、ブログのなかで公開された<老婆とグラスの中の入れ歯>が描かれた絵は、おそらく鉛筆デッサンによるもので、手・瓶・入れ歯のスケッチを巧みに組み合わせて創られている。書き込みの密度の高さが独特な魔的効果をもたらしていて、一度見るとなかなか忘れられないインパクトがある。

 ここのところ、彼女を悩ましているのは、ふと気付くと腕にくっきりとついている痣のような鬱血。

「この腕のアザは、どう見ても人に強く握られたような指の形になってるんだけど、そんなアザになるほど強くつかまれた覚えないし、それ以外にどうやってアザになったのか、さっぱり・・・なんか暴力をふるわれた女性の事件の証拠写真みたいな感じ(後略)」 (10.29(Wed) 20:16)

 気持ちが悪いので解明しようと躍起になっているうちに、それが、知らないうちに自分の手で自分自身の腕を強くつかみ、握り締めていたときに付いた指の痕だということにふと気付く。それも、どうやら深夜昏睡の状態でその行為を行なっているらしい。そこまで気付いてからが、宇多田らしい、なかなか知的な自己探求のプロセスの始まりである。

 詳しくは、宇多田ヒカルの日記ブログの「Devil Inside」というタイトルのつけられた11月12日(Wed) の記事を読んでもらいたいが、概略を話すと次のようになる。

 最近飾った老婆と入れ歯の絵→左手で、右手を掴んでる。

 ジュエリー屋さんで一目惚れして買った写真立ては、店に飾ってあった時のままモナリザの絵を入れて飾っている。→モナリザは逆に、右手を左手の上にそっと置いてる。

 私(宇多田)は、寝ている間に右手で左手を、アザになるほど強く掴んでる。

「老婆の絵を家に飾り出したのも最近。モナリザが入ってる写真立てを買ったのも最近。私が右手で左手を掴んでる画像をメッセに載せたのが一番最近。はあ~・・・なるほど・・・って感じちゃった・・・。」 (「Devil Inside」より)

 次に、大岡昇平の『野火』の話題。彼女が一番印象に残るシーンとして挙げているのは、「主人公の田村が、左手を右手で掴んで死んだ仲間の肉を食べようとする自分を必死に抑制する、っていう場面」だったという告白。

 ここからは、彼女自身の言葉をそのまま引用してみよう。昔の自分の絵を飾りたくなったこと、その傍に小さなモナリザの写真立てを置いたこと、夜中に自分で自分の腕を握り締めていること等々、一連の最近の出来事を繋ぐ深層の心理を彼女自身が鮮やかに解明しているその手際よさを読んで頂きたいから・・・。

「大岡昇平はキリスト教のモチーフをよく使うけど、左手が悪魔や苦しみの象徴で、右手が救いや神を象徴する、っていうのは、聖書にもコーランにも共通する考えなの。(他の宗教もあるかも) 科学的にも、左脳(右手)は理性、右脳(左手)は感情とか、っていうふうに言われてるでしょ。昔の人たちは直感的に、そんなこともう分かってたんだよね。

 ちょっと難しい話になっちゃったけど、要するに、私が無意識の時に右手で左手を強く掴んでるのは、もしかしたら、私の中の悪魔を、私の中の神が、押さえ込もうと格闘してる現れなのかな、って思わされたわけっす。

 悪魔は悪いやつじゃないと思うんだけどね(笑) っつかむしろ私が理性的に閉じ込めてる、心の奥底からの訴えを、聞いてあげないといけない時なんだろうね。」

 宗教絵画に関する図像学的な知識を活かして、見事な自己探求を繰り広げているところ、・・・やはり宇多田ヒカルは只者ではない。

 同時に印象的なのは、彼女の自己探求の楽しみ方である。日常の生活の裏に脈動する無意識の流れを何とか掬ってみようとするとき、ただ闇雲に感覚を働かせるだけではどうしようもない。頭を使い、過去に得た知識や記憶をフルに動員して、なんとかその漣のかすかな音をわたしたちも聴けるかもしれない。

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大塚国際美術館は教育普及に力を入れています!!―美術館情報の専門誌「ミュゼ」86号(2008年10月25日発刊)の巻頭を飾ったイヴェントについて

 月刊「ミュゼ」 

(アム・プロモーション発行/ISSN4910816038684)は、「ミュージアムをもっと知り、利用し、元気にするための博物館・美術館ジャーナル」と銘打った美術館・博物館に関する総合的な情報誌。その通算86号にあたる10月発行号の巻頭の情報コーナーに、大塚国際美術館の企画「名画で体験パリめぐり~観る、感じる、考える」の取材記事が掲載されている。

 記事では、大塚国際美術館のこの企画が「子どもたちに大好評だった。鑑賞ルートが約4キロにもなるという広い展示室。そのあちこちで子どもたちがじっくりと絵を眺めてスケッチしたり、絵のなかの人物に扮してポーズをとったり、パズルをしたりと楽しむようすが観られたのである。」と、実際に美術館を訪れた記者が子どもたちの活動を報告している。

 記事は、さらに子どもたちの体験を輝かせるこの企画ならではの仕掛けを次のように伝えている。「なかでも、体験コーナーには名画の登場人物に変身できる子ども用のロングドレスやスーツなどが用意された。変身して名画の前で描かれた人物をよく観察して、ポーズをするのである。衣装は、京都造形大学芸術学部 服飾科[ママ]の学生たちの協力で作られたもので、絵のなかのデザインにあわせている。変身した子どもたちが広い展示室をぬっていくと、ほかの来館者たちも思わずにこやかになるなど場の雰囲気もなごんだ。」

 わたしもこの企画に深くかかわったひとりなので、この記事を読み、今年の夏の記憶が蘇ってきた。来館した子どもたちは恥じらいながらも、昔の服装に着替えて、すっかり絵のなかの人物の気分になっていた。服装が変わると、それまで飛び跳ねていた子どもが、静々とおしとやかに歩き始めるから不思議である。その様子を見守る家族の一人一人にも笑顔がこぼれる素晴らしいイヴェントだった。

 記事はしっかりとした取材に基づいていて、こうした企画が、今夏、只の思いつきで生まれた訳ではなく、確かな背景を持つ事を次のように示唆している。

 「同館は、昨年10周年を迎えたが、なかでも子どもたち向けの教育プログラムは重視してきた。2003年には、鳴門市と鳴門教育大学と同館の3者が連携し、地域の文化財を活かした教育をめざす「地域文化財教育活用プロジェクト」を発足させた。美術館で行なうワークショップの企画開発、実施を同館と鳴門教育大学が共同して行い、鳴門市は応募や広報活動に協力をするというものである。また、市民ボランティアもこういったプログラムに参加している。[改行] 今回の「名画で体験パリめぐり」でも、鳴門教育大学や美術ボランティアが体験コーナーや案内役で活躍した。文化庁芸術拠点形成事業(ミュージアムタウン構想の推進)にもなっている。」

 これからの美術館の教育普及の促進には、近隣の幼・小・中学校・高校と、アートや教育について資料と知識を蓄積し、研究推進のノウハウをもっている大学、そして、学生などアートに関心を抱く青年層、さらに美術愛好家である市民との重層的な連携が大きな意味を持つであろう。まだまだ模索を続ける段階であるとはいえ、大塚国際美術館の果敢な取り組みは、先行事例のひとつに数え上げてもよいのではなかろうか。

(なお、「名画で体験パリめぐり~観る、感じる、考える」の企画は、ドレスなどに着替える体験だけではなく、子どもにも理解できる簡単な解説が付された全頁カラー刷りの冊子(15頁)の配布や対話型をベースにしたギャラリートークなど複数のアプローチを組み合わせたものです。期間は2008年7月19日~8月31日まで開催されました。会期中は予想を上回る参加者があり盛況でした。)

●このイヴェントに関連する記事が掲載されたサイトをみつけました。クリックしてお読みください。― 関連サイトに飛ぶ!

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豪奢な音の響き:ピアニスト村澤由利子の演奏会

 大塚ヴェガホールにてピアニスト村澤由利子氏とザルツブルガー・ゾリステンの競演が2008年11月16日に行なわれた。演奏題目はザルツブルガー・ゾリステンのみの「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」と、村澤+ザルツブルガーのベートーベン ピアノ三重奏曲「大公」とシューベルト ピアノ五重奏曲「ます」だった。

 印象に残ったのは、村澤の骨格のしっかりした堂々とした演奏である。ヴィルトォーゾとして円熟の域に達した彼女のピアノは、小編成の室内楽を大編成のオーケストラを背景にしたピアノ協奏曲ではないかと錯覚させてしまうほど気迫に満ちたものだった。

 よい意味で迸る音の洪水のように湧出するその響きは、いささかも迷いが無く、演奏会の最初から最後まで弛緩することなく、明晰だった。そうした印象は、演奏された曲が生まれた昔日の音を探り出そうとするかのようなザルツブルガー・ゾリステンの演奏スタイルとの対照で、なおさら強められたように思う。晴朗な初冬の日曜日、村澤の奏でるピアノの豪奢な音の響きを堪能でき、印象深い演奏会となった。

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アメリア・アレナスだけではなく・・・鑑賞教育を推進する素晴らしい実践家:濱口由美(HAMAGUCHI Yumi)先生の研究発表会+シンポジウム(報告)

 振り返ってみると、Japan Art Education Networkと称しているわりには美術教育や芸術教育にダイレクトに繋がる情報が少ないサイトですね・・・と、自嘲モードの編集長が言う。すると、窓からみえる冬空に、そろそろ足の踏み場も無い自宅の書斎を片付けて、電気ストーブを入れないとなあなどと考えていた編集局員が、取り繕って、「表紙のデザインも替えたところですし、ここらで少し真面目な記事も誌面に載せておきましょうか」と言った。まあ、こんな詰まらぬ小芝居から書き始める必要もないが、見出しと中身が異なることばかり、書き散らしてきた反省が頭をもたげてきたので、言い訳がましい導入を置かざるをえない気分になった。さて・・・・

 2008年11月15日(土曜日)に、美術科教育学会西地区研究会が徳島県立近代美術館の3階講座室において開催された。<創造を生涯の友にする「鑑賞遊び」というテーマで徳島市内の公立小学校にお勤めの濱口由美(はまぐち ゆみ)教諭が二つのパートにわけて、彼女のオリジナルな方法論である鑑賞あそびの目的と手順について詳しく論じてくれた。

 彼女によれば、鑑賞遊びとは、「作品とのかかわり方を習得する場」と「自立鑑賞の場」を連動させる活動方法であり、遊びの特性であるルールや相互理解の深まりに着目して名づけたものである。同様な名前の教育実践があったとしても、それらとは意味の異なるユニークな方法論だ。彼女の鑑賞遊びは、常に教室での実践の裏づけをもつ。逆に言えば、空理空論ではない、検証可能な理論性を核に据えているということだ。

 当日は、西地区研究会の研究発表とパネルディスカッションに先立ち、同美術館のアトリエ室にて、「鑑賞シート活用授業研究会」が開催され、濱口由美先生の鑑賞遊びの考え方と方法論に基づく鑑賞授業の題材化と授業実践について、徳島県内の小学校・中学校・高校の先生方が自らの成果を持ち寄り、ディスカッションが行なわれた。「鑑賞シート活用」という言葉が付されているのは、徳島県立近代美術館発行の鑑賞シートに、彼女の考え方と方法がそのまま活かされており、そのシートを活用した授業実践を互いに報告しあうという会の趣旨に基づいている。今回の「鑑賞シート活用授業研究会」では、この鑑賞シートにおいて取り上げられている、現代の木版画家、吹田文明の作品をめぐる「鑑賞遊び」の授業について研究討議が行なわれた。

 いずれの授業報告も素晴らしい内容の濃い鑑賞活動が展開されたという報告ばかりであり、濱口由美先生の「鑑賞遊び」の思想と方法論の素晴らしさが確認されたかたちとなった。

 午後の研究発表では、創造的な鑑賞活動がいかなる方法で可能となるか、過去から現在までの取り組みを写真やビデオ映像を交えて、その方法論についてわかりやすく整理し、すべて公開していただいた。そのなかでは、子どもたちがクレーの絵の前で行なった自分たちの詩の朗読会や武家屋敷(原田家・国の登録有形文化財)のなかで開催された子ども自らが自分たちの作品展を展示・解説しながら、鑑賞遊びという学びの導入を図るという意欲的な実践が紹介された。

 濱口由美先生の鑑賞遊びは、地域に密着して展開されているものの、決してローカルなものではない。むしろ、その基本は、日本の美術鑑賞教育を大きく飛躍させるベクトルを内在する力強い思想性にあり、表面的な「絵についてのまなび」など、爆砕してしまうほどの起爆力に満ちた、アートの日常化を目指す骨太の教育実践なのである。

 アメリア・アレナスもよいのだが、日本にもこうしたユニークな取り組みを行なっている鑑賞教育のスペシャリストがいることを一人でも多くの方々に知らせたいと思い、「アメリア・アレナスだけではなく・・・」という確信犯的にキャッチーなタイトルをつけてみた。

 それにしても、彼女の授業は本当に感動的である。子どもたちは自分の意見をしっかりと語り、ひとの意見をまっすぐに捉える。そういうコミュニケーションの密度がきわめて高いのである。教室にはいつも笑いが溢れ、子どもたちの表情には、意欲が漲っている。

 笑顔が素敵な、なかなかチャーミングな先生なので、映像的な映えもよいでしょう。どこかの局の敏腕プロデューサーかディレクターのかた、濱口由美先生の感動的な鑑賞遊びの番組を作ってみては如何ですか? 図工の授業を通じて、子どもたちが成長する感動のドキュメンタリーができあがるはず。

(当日の研究発表とパネルディスカッションについては、別の機会に紹介します。なお、濱口由美先生は、教育美術誌が主催する歴史ある教育論文賞の受賞者です。また、今年度は、6月28日に東京家政大学で開催された美術科教育学会東地区研究会にて、首都大学東京の長田謙一氏、筑波大学の直江俊雄氏らとともに、「造形活動と思考・言語の形成」について、教育実践を踏まえて研究発表をなさっています。発表や講演の名手として頭角を顕している人であり、各県の教育委員会・地域の教育研究組織などが主催する講演やシンポジウム、そして助言・指導者として最適の人材です。)

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自らの変身譚(Story of Self-transformation)を紡ぎだしたピカソ

 自画像とのかかわりで採り上げられるのは、ピカソの変身譚ともいえるミノタウロスをテーマにした絵画作品群である。

 サントリー美術館で開催中(2008年12月14日まで)の「巨匠ピカソ 魂のポートレート」展は、ピカソの自画像の発展上にアルルカンのシリーズやミノタウロスをモチーフにした一連の作品を広義のセルフポートレートとして位置づけ展示している。会場に掲げられた解説パネルには、ピカソ自身の自己像と関連づけながら一連の画題を整理している。すなわち、ピカソにとってアルルカンやミノタウロスは姿を変えた自らの自画像にほかならない。よくぞ、ここまで迷いの無い断定的解説をパネルにしたものだと、その「潔さ」が妙に印象に残る展覧会である。どのような美術館の誰の展覧会でも、通常の展示解説であれば必ずといってよいくらいその文面は曖昧である。例えば、「~なのではなかろうか。~といわれている。~というみかたもある。」といったような責任を回避する曖昧な語尾ばかりが並んでいる。

 こうした断定の背景には、作者のピカソ自身がミノタウロスについて述べたメタフォリカルな次の言葉がある。

 「もし、一枚のカードに私が通り過ぎてきたすべての道のりを記して、それを一本の線で結んだら、それはおそらく一頭のミノタウロスの姿を取るんじゃないかね。」(アンヌ・バルサダリ(Anne Baldassari)「ピカソ 自画像―画家の肖像」[図録所収]からの孫引き・出典は書かれていない。1960年代の言辞と書かれてある。)

 パリ国立ピカソ美術館館長のアンヌ・バルサダリの解釈では、このメタフォリカルなピカソの言葉は次の文脈のなかで理解されている。

「・・ピカソが言わんとしているのは、最終的に画家を作り出すのは絵画なのだということである。ピカソの自画像とは、絵画の特徴である造形的柔軟性を備えつつ、絵画そのものの中から運まかせに出現してくるものの総和なのである。」(アンヌ・バルサダリ「ピカソ 自画像―画家の肖像」)

 これはまたとびきり曖昧な、晦渋(abstruse)というよりも老獪(crafty)なたぐいの文章表現である。おそらく彼女が言わんとしているのは、絵画とは、(画家という存在を捨象しても)絵画自体がもつ内的な生命によって発展する生き物なのであり、画家はそのバイタルな絵画という存在に突き動かされ、働かされている従者に過ぎないということであろう。画家が絵画を生み出すのではなく、絵画が画家を生み出すのである。ひところ流行った人間が遺伝子を伝えるのではなく、遺伝子が人間という乗り物に乗り、その身体と脳髄を支配する存在なのだというレトリックにどこか似た表現であり捉え方である。

 運任せに出てくるものとは何なのだろうか? ひとつには、創作というプロセスに引き寄せられ顔を現す無意識の世界、抑圧された感情や拒否したい認識の類であろう。もうひとつは、作家個人の画業の歩みが自ずと指し示すベクトルが突如掴み取る新たな造形的認識の類であろう。もちろん、このほかにも思いがけず遭遇する時代の断面の反映なども運任せに出てくるものの範囲に含まれるであろう。

 ミノタウロスというテーマは、これら運任せに出てくるもの全てと関連し、発展し続けていった。その意味では、ミノタウロスというテーマの絵画に繰られて画家ピカソは創り出されたのである。

 バルサダリによれば、それまでにもピカソの絵画にしばしば登場していたミノタウロスをいっそう自覚的に自分のシンボルとしてピカソが位置づけた契機は、シュルレアリスムの雑誌『ミノトール』1号の表紙のために制作したコラージュ作品(1933年作品)においてだった。「それ以降、ピカソが新たな自分のシンボルマークとして選んだこの牛頭人身の生き物は、彼の作品の中で不変の要素となっていく」のだ。いわば、ミノタウロスは姿を変えた自画像の位置を占める。逆に言えば、ミノタウロスという獣性と聖性を兼ねた存在がピカソの絵画のモチーフを支配し、彼をミノタウロスを通じた自己探求へと指し向かわせるのである。

 バルサダリの「ピカソ 自画像―画家の肖像」という論文によると、ドラ・マールは半身半獣の女ミノタウロスの姿として描かれてピカソの絵画の中に登場し、その数ヵ月後には、絢爛たる色彩が特徴的な彩色素描のなかで、ピカソの象徴である(男)ミノタウロスに犯されるエロティックな白い肌の女体として描かれることになる。

 このことから言えることは、ピカソの自己探求がミノタウロスという化け物を見つけ出したという側面と、ミノタウロスという神話上の生命体が思考し、行動し、発情するその身振りをピカソ自身が纏い始めたという側面が、合わせ鏡のように繋がっていたということである。ドラ・マールをピカソがみるとき、自分の獣性と聖性を理解してくれるもう一人の異形なる存在者として感じた瞬間があったのかもしれない。また、別の機会にはミノタウロスの神話のままに、無防備なドラ・マールを汚す存在として自らを捉える感情がピカソのなかに芽生えていたのかもしれない。

 役者という役者は、その演技の流儀が演技派であれ性格俳優といわれる個性派であれ、自分が演じている役のうえの人物に思考と体を乗っ取られる一瞬があるに違いない。そのようにして、文字通りフィクショナルな架空の人物が、俳優を支配し、俳優になりすまし、俳優をコントロールする戯れを見ることこそが、演劇やドラマや映画を観るということの醍醐味、その感動を保証する隠された要素なのではなかろうか。そのような事例を脇に置いて、ピカソのミノタウロスというテーマを眺めると、「ミノタウロスは姿を変えたピカソの自画像にほかならない」という思い切りのよい言辞は、複雑で陰影に富んだ含蓄ある解釈として意味を持ち始めるのである。

***リンク・関連事項について詳しく書かれたサイトをみつけました。クリックしてお読みください。*** 

ミノタウロス関連

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ピカソの自己探求としての自画像について―前回ブログへの追記

 マヌエル・ガッサー(Manuel Gasser)著『巨匠たちの自画像』(桑原住雄・下山肇訳 1977年 新潮社)では、ほとんど触れられていない青の時代の「自画像」(Self-Portrait[in Blue Period] 1901. Oil on canvas.)は、世界の絵画史における自画像部門のトップに位置するかも知れぬ作品である。この作品、サントリー美術館「巨匠ピカソ 魂のポートレート」展(会期:2008年10月4日~12月14日)にて展示中である。この作品への言及無しに、ピカソと自画像の関係について考えるのは、やはり問題だろう。

 また、1896年―ピカソ15歳前後―に描かれたSelf-Portrait(Oil on canvas. Museo Picasso, Barcelona, Spain.)も、前回紹介した、マヌエル・ガッサー著『巨匠たちの自画像』では採り上げられていないが、青の時代の「自画像」や同著で掲載されている自画像(1906年作品)とともに、きわめて魅力的な自画像である。この1896年の自画像を果たして著者は知っていたのかどうか、また、検討したのかどうか、大いに気に掛かるところだ。

  こうしたマヌエル・ガッサーの思考の不備(青の時代の自画像の検討省略と少年期の自画像への言及無し)に気付かずに、前回、考えをまとめようとしたことは悔やまれるが、気を取り直して考えてみると、基本的には、著者が抱いた「偉大で情熱的なひとりの肖像画家が、どうして生涯の半ばに達するはるか以前に自分の肖像画に対する関心を失ったのか、という疑い」そのものは、やはり残る。

 しかし、この問いに答えるためには、青の時代の自画像の存在の大きさを十分考慮する必要があろう。あの自画像から窺える自己探求の道程には、自らを見知らぬ他者として冷酷に分析する痛みが伴っている。そのようなことを念頭に置いて考えてみると、この、青の時代の自画像を通じて自己探求のための自画像制作を極限まで突き詰めたことが、ピカソ後半生の自画像の欠落に関係していないはずがない。

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ピカソの自己像について―マヌエル・ガッサー著『巨匠たちの自画像』から

 ピカソと女性との関係性は、その年齢差から言っても、遍歴の華々しさから言っても、確かにスキャンダラスではあったが、たんに著名な画家が浮名を流すといった表層的なものだったわけではなかった。ピカソは夢中になった恋人たちや二人の妻を賛美し、ときには夢幻的なイメージとして、ときには冷徹な分析の結論として、キャンバスに描き続けた。もちろん、そこには自らの描画上のスタイル探求というモメントも反映しているが、特定の女性を描いたほとんどの絵から、モデルとして描かれた個人の身体的な特徴、あるいは性格の反映とみられる表情や身振りを読み取ることができる。

 それほどまでに人間というものに関心を持ち、ときには理想化しときには残酷なまでに冷徹な分析力をもって身近な人間を描いたピカソだが、同様の熱意と集中力を傾けた自画像は驚くほど少ないという。マサッチョからミロまで、70人の美術界の巨匠たちの自画像について、その特徴などを手短に紹介したマヌエル・ガッサー(Manuel Gasser)著『巨匠たちの自画像』(桑原住雄・下山肇訳 1977年 新潮社)では、ピカソの自画像について次のように述べられている。

 「ピカソには三十点にものぼる自己表現がある。―一見これは大変な数だ。しかしそのうちの主要作は、厳密に見てわずか二点にすぎないことがはっきすると、この数字は重要な意味を失ってしまう。そのひとつは、ここに取りあげた1906年の肖像であり、もうひとつはその5年前に完成され(後略)」 た作品である。

 「ここに取りあげた作品」とは、91.5×71cmの油彩画で25歳頃の作品と考えられているものだ。白の木綿の下着のようなシャツ一枚で四角い小型のパレットを左手に持って立ち、気迫が籠もった眼差しで斜め前をみつめる自画像である。

 油彩画だけに限定すると、ピカソの自画像が青年期に描かれたわずか二点のみであること、素描などを含め30点の作品を意識的な自画像と認めて分析しても、「わずか二点の例外を除けば、すべてが30歳以前の時期に生まれている」 ことに著者は他の画家との違いを見出すとともに、ある種の不審さを抱いている。

 「このような[註:前節を受けて<自分の顔だちや格好に似たものをことごとく回避する>]慎み深さは、肖像画そのものに対する彼の関心が決して消滅してはいないだけに、一層不審に思われる。その後も彼は多くの友人たちを、とりわけ、彼の人生で或る役割を演じた女性たち、そして子供たち、さらにはバルザック、ゴンゴラその他、多数の想像肖像画を制作しているのである。(改行)偉大で情熱的なひとりの肖像画家が、どうして生涯の半ばに達するはるか以前に自分の肖像画に対する関心を失ったのか、という疑いは、ピカソについていろいろと考えさせる糸口になるであろう。」

 どうやら、この謎を解くにはピカソという人間の心の深遠を覗き込むほか解決の方法はなさそうである。もちろん、マヌエル・ガッサー自身は婉曲ながら、次のように示唆的な言葉を残している。

 「だが次のような解釈もないがしろにされてはならぬように思われる。つまり、写真家たちが彼を煩わせ始めた時に、ピカソは自画像から手をひいたのだ、という判断である。」

 ピカソに密着し、その日常生活のなかでピカソの感情のわずかな起伏さえも余すところ無く写真に収めてしまう写真家の存在が、自画像を描こうという彼の意欲を減退させ必用を解消してしまったという見方であろう。即物的に情況を分析したこの解釈は、なぜピカソは後半生、自画像を描かなかったのかという問に対して、一見、答えをはぐらかしているかのようにみえる。しかし、前回取りあげた雑誌に掲載された素晴らしい記録写真の数々を見ているうちに、この説が説得力を持ち始めてくるから不思議だ。

(蛇足:愛する女性の姿は描くが、自分は描かないという非対称の現象は、支配者は自身の姿を隠し、対象を観察し操作するという図に照らしてみれば、ピカソの特権的な立場を暗示している。(フランソワーズ・ジローが主張した、ピカソの暴力的性向とこの図式は容易に一体化する。) しかし、こうした説明の難点は、その認識の正誤にあるのではなく、現象を図式的に整理することによって、そこから新たな感想や批評や物語りが生まれる可能性を封じてしまう、その不毛さにあるといえよう。)

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畏るべしピカソ―「ピカソのミューズたち」を読む(集英社 月間PLAYBOY Vol.34 No.11掲載記事)

 アーティストの情報をわかりやすく、しかも体系的に纏めた特集をときどき組む雑誌PLAYBOY誌11月号が「ピカソの女神(ミューズ)たち」と題した特集を組んでいる。この特集のなかの、西洋美術史専攻の岡部昌幸氏と塚田美香子氏が執筆した「ピカソが愛した9人の女たち」という記事は、ピカソ人間像の探究のための手引きとして最適である。岡部氏はピカソ作品の鑑賞に関する本を執筆しており、塚田氏は日本におけるピカソ受容史の研究者なので、叙述も客観的であり、筆が滑りそうになる刺激的な話題に差し掛かっても、よく抑制された叙述である。

 ジェルメーヌ・ガルガーリョ(Germaine Gargallo 1881-1948)、フェルナンド・オリヴィエ(Fernand Olivier 1881-1966)、エヴァ・グエル(Eva Gouel 1885-1915)、ギャビー・レスピナス(Gaby Lespinasse 1888-1970)、オルガ・コクローヴァ(正妻・ピカソに先立ち死亡 Olga Khokhlova 1891-1955)、マリー=テレーズ・ヴァルテル(Marie-Therese Walter 1909-1977)、ドラ・マール(Dora Maar 1907-1997)、フランソワーズ・ジロー(Francoise Gilot 1921―御存命)、ジャクリーヌ・ロック(オルガ没後に結婚した二番目の妻 Jacqueline Roque 1927-1986)[正しくは仏語表記のため、上記の氏名アルファベットは不正確です。雑誌でお確かめください。]

 以上が採り上げられている九人の女性である。ピカソとの関係性を詮索する一助となりそうなので、年齢差を計算してみよう。ピカソが1881年生まれなので、ピカソ生年を基準にすると、だいたい次のようになるだろう。ジェルメーヌ・ガルガーリョ(同い年)、フェルナンド・オリヴィエ(同い年)、エヴァ・グエル(-4年)、ギャビー・レスピナス(+7年)、オルガ・コクローヴァ(-10年)、マリー=テレーズ・ヴァルテル(-28年)、ドラ・マール(-26年)、フランソワーズ・ジロー(-40年)、ジャクリーヌ・ロック(-46年)。

 はじめの頃の恋人たちは同い年から前後10年までの年齢差の範囲に収まるが、結婚後の恋人(愛人)たちとなると、二回りから三回りの年の差となり、二番目の正妻とは四回りちかい年の差となる。よく知られているように、その関係は、老いたピカソと、常識的に見れば信じられないほど年の離れた若い恋人たちという組み合わせである。

 もうひとつ別の角度からピカソとの恋愛関係を持った女性たちを並べて調べてみたいのは、死因である。一気呵成にこの記事を読んでみた印象として、どの女性も不幸な末路を歩んだような印象が残ったからだ。他の文献に当たる余裕が無いので、「ピカソが愛した9人の女たち」だけから、亡くなった七人の死因を拾い集めてみたいと思う。ジェルメーヌ・ガルガーリョ(記事だけからは断定できないが、おそらく病死)、フェルナンド・オリヴィエ(記事からは不明)、エヴァ・グエル(病死)、ギャビー・レスピナス(記事からは不明)、オルガ・コクローヴァ(精神病をながく患い癌のため死亡)、マリー=テレーズ・ヴァルテル(首吊り自殺)、ドラ・マール(長命:89歳で逝去/記事からは死因不明)、ジャクリーヌ・ロック(ピストル自殺)。

 自殺者についていえば、マリー=テレーズはピカソの歿後四年目、ピカソとの奇跡的な出会いから50年目にあたる年に、遺産相続問題を解決した後の後追い自殺であり、ジャクリーヌ・ロックはピカソとの(おそらく濃密な)思い出から逃れられない日々での自殺である。二人とも明らかに亡きピカソへの追想から逃れられぬ結果としての後追い自殺であろう。前者の場合はピカソとの間に一子マヤをもうけ、そのマヤの子にあたるピカソの孫たちが三人も誕生している時期の自殺。後者の場合には、ピカソの最後の創作意欲を掻き立て、独占的に晩年のピカソの面倒を看た正妻だからこそ突き当たってしまった深い悲しみのなかでの自殺なのではないかと思う。

 自殺者のほかにも、ピカソとの逢瀬や生活がその人生に濃い影を落としたと思われる女性たちがいる。オルガ・コクローヴァは、何らか生来の気質があったのかどうかはわからないが、ながらく精神を患い隠遁的生活を送る。彼女とピカソとの間に生まれたパウロ・ピカソの子供のうち一人はピカソの葬儀後に自殺。自ら写真家や画家としても活躍したドラ・マールは、詩人エリュアールからの求婚を断り、修道女となってしまう。雑誌では、詩人の求婚を「ピカソのあとは神だけ」という言葉で断ったことが紹介されている。ピカソが結婚前に逢瀬を重ねたギャビー・レスピナスは、アメリカ人銅版画家の妻であり、ピカソとは不倫の関係だった。このため、二人の関係が実証されたのは、ギャビー・レスピナスと夫が亡くなり、遺族が遺品整理をした後のことである。ピカソがギャビーに送った臆面も無い愛の言葉を綴った手紙には、おそらくは二人の愛の巣を描いた室内の風景が描き添えられている。軽妙な筆致のその美しい水彩画は、途方も無い額面の資産であると同時に、ギャビーの家庭や遺族に複雑な心理的な翳を落としたのかもしれない。(空想過剰かもしれぬが、小説『マディソン郡の橋』の冒頭部分を思い出してしまう。)

 岡部昌幸氏は「ピカソが愛した9人の女たち」のなかで、フランソワーズ・ジローだけが「彼女は、ピカソを「裏切った」唯一の女性だった」と評している。彼女はピカソとの間に、クロードとパロマという二人の子供をもうけている。二人目のパロマが生まれたのは、1949年なので、ピカソ68歳のときの実子である。生殖能力にかかわるこの一事をもってしても、ピカソが驚異的な生命力の持ち主であったことが理解できる。フランソワーズ・ジローは、自分を賛美しながら不倫を続けるピカソを見限り、二人の子供を連れてピカソと生活していた南仏からパリに逃れ、別の男と電撃的に結婚をしてしまう。「彼女は、ピカソを「裏切った」唯一の女性だった」とは、このことを指している。

 その後、ピカソの介入で、フランソワーズは離婚。離婚の陰にピカソ自身が動いたにもかかわらず、ピカソはジャクリーヌ・ロックと結婚。こうした修羅場のような情況の後に、1964年、ピカソとの間に交わされた手紙などをもとにして、暴露的な『ピカソとの生活』をフランソワーズが出版。世界の美術界に一大センセーションを巻き起こした。その後、ポリオ研究やエイズ研究の第一人者として名高い研究者と彼女は結婚し、今に至っているという。

 フランソワーズだけが、いわばピカソのデモーニッシュな毒によって、致死傷を負わずに、生き延びたミューズなのではなかろうか。毒には毒をもって制すとは言うが、彼女が安息の家庭を築いた生涯の伴侶が、猛毒ウィルスに打ち勝つワクチンを開発する研究者であるというところに、なにか笑えぬ運命の皮肉を感じてしまうのは、やはり悪趣味に過ぎる見方かもしれない。

 それにしても、ピカソとは何者なのだろうか。このような人間関係の記録を読めば、その人間像が解明されるのかといえば、そうではない。むしろ、別れの後姿に漂う底知れぬ冷酷さと、出会いから生活を共にする期間にみられる女性への愛情の純度の高さには、到底、埋めがたいギャップがあり、魔的なピカソの変貌がある。トータルにみれば、転がる石をこそ模範とするような、<安定への嫌悪>をその歩みに読み取るべきなのかもしれない。その燃えながら転がる石に付き添い愛憎の渦に巻き込まれた女性たちもまた、どこか凡俗を超越し、聖と俗の裂け目を跨いだ稀有な人々にみえてしまう。

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塩田千春個展「精神の呼吸」展の輝き―国立国際美術館にて9月15日まで開催

 どういう経緯で大阪の国立国際美術館でのワンマンショーが実現したのかはわからぬが、このように優れた現代のアーティストに個展の機会を提供した国立国際の英断に惜しみない拍手を送りたい。

 おそらく、塩田千春(Chiharu SHIOTA)の個展開催を知らずに、モディリアーニ展の鑑賞を目的に国立国際に出かけ、思いがけず、この新進気鋭のアーティストの素晴らしいインスタレーションを目にした美術愛好家も多いことと思う。かく言う私も、そうした者のひとりである。

 モディリアーニ展を開催している美術館のB3フロアーへとエスカレータで降りる途中、無数の靴に括られた、やはり無数のピンと張り詰めた真紅の紐が目に飛び込んでくる。いったいコレは何?

 こうして、誰もがモディリアーニ展へとエスカレータを乗り継ぐ前に、B2フロアーに降り立つことになる。このインスタレーションには、「モディリアーニを観たあとに、時間があれば観覧しよう」というような悠長な考えが吹き飛ぶほどのインパクトがある。近づけば、真紅の紐が括られた無数の古靴には、ありとあらゆる種類があり、そのひとつひとつに靴の思い出が綴られたノートの切れ端や手紙が添えられている。もっと近づいて身を屈めてみれば、いろいろな字体、いろいろな筆記具で綴られた文章が読める。小さな几帳面な字で「これはこううんのくつです。このくつで走ってゆうしょうしました。」という子どもの手紙もあれば、もう少し達者な大人の字で、人生の一断面を綴った靴の思い出が書かれた手紙もある。そうした多種多様な、男物の靴、女物の靴、運動靴、部屋履きの靴、和装用の草履や下駄、一時期流行ったかたちのブーツやサンダル等を眺め、かつての持ち主のメッセージを読んでいるうちに、すっかり、このアーティストの戦略に乗せられ、このインスタレーションを楽しんでいる自分を発見する。色と形という造形的な要素で、まず見る者をひきつけ、そして、メッセージの解読へと思考の流れを組織する、この塩田というアーティストの手腕は確かだ。

 塩田千春について、国立国際のサイトでは、次のように紹介している。

「塩田千春(1972年大阪生まれ)は、ベルリンを拠点に国際的に活躍する美術作家です。京都精華大学洋画科卒業後、1996年よりドイツに活動の拠点を定め、ブラウンシュバイク芸術大学にてマリーナ・アブラモヴィッチに師事しました。以来、糸を展示室に張り巡らせるインスタレーションや、旧東ベルリンの解体されるビルや廃屋から集めた多数の「窓」を組み合わせたインスタレーション、さらには自らの身体を用いた映像作品など、多様な表現を展開し、これまで数多くの国際展に参加してきました。また、日本国内では、2001年に開催された第1回横浜トリエンナーレに、泥の付着した巨大な5着のドレスからなる作品《皮膚からの記憶》を出品したことで大きな注目を集めました。 (部分を抜粋)

 「大陸を越えて」という、二千以上の靴と、赤い毛糸を使ったこのインスタレーションのあとに見る者を待ち受けているのは、ゴワゴワとした生地でできた巨大な三着のドレスである。何メートルあるのだろうか、古風な印象を与えるいかめしいゴシック調のそれらの服は、見る者を圧倒するそのスケール感と、表面に塗りつけられた乾いた泥の不敵な厚み、そして三幅対に並べられたそのシンメトリカルな構成によって、見る者に衝撃を与えずにはおかない。何人(なんぴと)をもその迫力で打ちのめすこの巨大な衣服は、もはや「異様な」何かとしか形容するほかのない物体として、魔的な領域に存在している。そして、同時に、ドイツ現代美術のキーファーなどに通ずるデモーニッシュな造形世界に連なるコンテクストを感じさせる。

 同じフロアーには、「眠っている間に」と題された、複数のベッドと黒の毛糸から成るインスタレーションが展示されている。どのような手法で、毛糸が空間に張り巡らされているのだろうか、黒い線描による空間の区切り方は、有機的で複雑であり、蜘蛛が編んだほどには整然としてはいないが、なにか生命感を感じさせる律動に満ちている。

 大量の黒い毛糸が使われ、縦・横・斜めに空間を過ぎり、部分、部分では複雑に絡み合いながら、広いフロアーの空間を埋め尽くしている。このために、部屋の端から端までは靄がかかったように霞んで、見通せない。無数の黒い毛糸に覆われ囲い込まれた空間に、幾つかのベッドが並んで置かれている。

 したがって、そのベッドに見る者は空間的に近づけない。そうした、近づけないというある種のもどかしさを感じつつ、あたかも、眠り姫が眠る古城に足を踏み入れてしまったタイムトラベラーが感じるであろう時間と空間の「狂い」を傍観者的に感じてしまう。ここでは時間の経ちかたが遅い。それは、現実と虚無の間に漂う幻想の時間であり、そうした時間が形となって現れた空間である。入眠時にひとが覚え、覚醒時に忘れていく虚像の空間に塩田千春の作品は存在している。とりわけ「眠っている間に」という作品がそうした塩田の作品のありようを包み隠さず明かしている。それは、同時代のインスタレーションという文脈から冷静に距離を置いた実験であり、人間の内面に浸透する効果において秀逸な表現である。

 こうした、彼女のアートの本質を塩田自身も隠しはしない。「落ちる砂」という映像作品において彼女はその指向性を潔くも告白しているように、私には感じられた。

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日本の観光立国に必要なこと―外国人旅行者の目になって考えてみよう。

 日刊紙「フジサンケイ ビジネスアイ」の9月3日の13版第3面の「クローズアップ どうなる」というコーナーに大見出し「観光関連業界 新たな収益源に」という興味深い記事+論説が載っている。キャッチーな小見出しが二つ添えられており、そこには「外国人観光客が急増」「低迷続きの内需をカバー」とある。

 それによると、政府は日本の<観光立国>を目指して、来る10月に「観光庁」を立ち上げるらしい。[余談だが、かんこうちょうというヨミは「官公庁」と変換されてしまう。名称としては、意味と直結するわかりやすい命名だが、パソコンベースの作文時代に混乱を招くこと必定。文字入力ソフト開発業者泣かせの新語であろう。] この新セクション立ち上げの目的は、観光地としての日本の魅力を開発・宣伝して、2010年までに「訪日外国人観光客数1000万人、10年度[=2010年度]までに国内旅行消費額30兆円」の目標を達成することにあるという。

 驚くべきは、この話題に関する国交省の試算だ。

 「国交省の試算によると、外国人観光客一人当たりの消費額は約18万円。日本の定住人口一人の減少による消費額の減少を、7人の訪日外国人の誘致でカバーできるという。」(「フジサンケイ ビジネスアイ」)

  記事から逆算すると、単純な計算で言えば、日本人一人の年間の経済活動のうち、物品・サービス等の消費額は、わずか126万円ということになる。私には意外に小さな額面であるように感じられるが、収入のうち税および貯蓄などを除いて、乳幼児から老人まで含んで計算した単純な頭割りでは、このぐらいの額面なのかもしれない。

 この消費額についての印象はさておき、人口減少による消費の落ち込みを外国人旅行客の増加で補おうという強引な発想がよかれあしかれ刺激的だ。日本は長期の人口減少傾向にたいする有効な対策が打てないまま高齢化が進み、個人消費の総額も落ち込み、その点からいえば、いまや「日、没する国」への転落が確実視されている。そうした危機的状況と、外国人観光客がここのところ増えているという短期的な現象を強引に結びつけた、まさに獲らぬ狸の皮算用的言説である。このような思考法で未来への施策を検討する政治センスについて、国民がどのように判断するか大いに興味を引かれるところだ。

 たしかに、「外国人観光客一人当たりの消費額は約18万円」というのは、予想外に大きなマーケットである。そんなにお金を使ってくれているのだろうかという単純な疑問も湧くが、秋葉原や日本橋、それに大手の家電量販店などで日本の電子機器を買い求める外国人の姿をよく見るから、このぐらいの額面をそういうところで使っているのかもしれない。事実、記事によると「消費低迷や少子化による需要先細りに頭を悩ませる百貨店、家電量販店などの流通業界も訪日外国人を"新市場"と位置づけ、顧客囲い込みを図っている」という。そのために、売り場に中国語を話せるスタッフを常駐させたり、海外仕様の家電や電子機器を店頭に並べたりする動きがあるという。

 観光庁の役割は何かというと、具体的な仕事としては、「通訳の充実など地域支援に本腰を入れる」という一事のみがこの記事では取り上げられているが、素人考えでも、海外の富裕層の誘致にたいするアドバイスや旅行者にとっての利便性を図る環境整備など多岐にわたる仕事が想定される。

 まあ、概略はこのような記事なのだが、これを読んで感じたことがあるので少し書いてみたい。まず、外国の観光客を誘致したいならば、外国人が自由に日本の各地を旅行することを仮定して、何が問題なのかを考えてみるべきであろう。

 旅行や出張などのおりに、それまで知らなかった地方の都市を歩いてみれば、誰もが感じていることであろうが、小さな市町村ならいざ知らず、県庁所在地以上の規模の大きな都市であっても、主要な施設への道しるべとなる案内表示板がきわめて少ない。土地のひとを呼び止めて、行き先を告げ道を聞いても正確に答えられる人は案外少なく、聞き出した話をたよりに歩いてみても、結局、道に迷い、呼び止めた時の人選を後悔する事になる。

 東京や大阪などの大都市になると、事態は改善されているかというと、必ずしもそうとはいえない。例えば、大阪駅。ふだん利用している大阪在住者にとっては、単純な構造の単純な駅に感じられるかもしれないが、改札が幾つかあり、よそ者にはその構造はかなり複雑である。駅周辺の地下街を利用して、地下鉄や阪急・阪神などの電車に乗り換えようとすれば、ところどころに設置されている頭上の案内板を頼りに動いていくほか無いのだが、この案内板が不親切極まりない。たとえば、JR大阪駅への最短の地上出口の前に案内板が無い。道順が頭の回路に記憶されれば、「そうそう、このかばん屋さんの手前で・・・・立ち飲みができる串カツ屋さんの前を・・・」などと、記憶を頼りに歩けるものの、どうして、ここに表示が無いのだろうと不思議に思うことがある。

 JR大阪駅から、長距離バスの発着する阪急古書の街前のバスセンターに出る道順もわかりづらい。ヨドバシカメラ向かいの道を歩けば、ものの5、6分で行ける距離なのに、阪急線梅田駅方面に動く歩道などを乗り継ぎ、若干、迷いながら歩いていくと、ずいぶん時間をロスしてしまう。ここに案内板がひとつあればどんなに利便性が改善されることだろうかと思うこともしばしばだ。地下街を歩いているからわかりずらいのかと思い、地上に出てみても交通機関の乗り継ぎについては、かえって混乱し、わからなくなる情況だ。

 日本人でも旅行者にとっては、わかりずらい複雑怪奇な都市の構造である。外国から旅行で来られた方々にとっては、大都市東京や大阪はまさに、魔都か迷宮以外の何ものでもない。実際、大阪駅周辺に架けられた巨大な歩道橋のうえでは、たいていバックパッカーの外国人たちが、地図を片手に四方のビル群を眺めながら、疲労困憊した表情で悩んでいる。限られた滞在日程のなかで、いま居る場所の見当もつかないまま、時間だけが過ぎていくもどかしさに歯噛みしていることだろう。

 そうした外国人にとって、大阪地下街の天井から吊られた案内板の英文表示は、有難い存在だろうが、そこにも問題がないわけではない。それは、案内板の日本語表記に押されてスペースが無くなったところに、申し訳程度に書かれた英文の字の小ささである。あれが裸眼で読めるとすれば、視力は確実に2.5以上である。たしかに、左右上下に分岐点の多い地下街で、英語表記の案内板は有用である。しかし、こんなに小さい文字表記を正確に読み取ることは著しい苦痛を伴う作業となるだろう。あの大阪の地下街の雑踏=人の波のなかで、一々立ち止まりながら、道しるべを読むこと自体、一種の難行苦行であるというのに・・・・。

 「観光立国日本」を高らかに謳いあげる前に、外国人旅行者である彼・彼女をその目的地まで導いてあげる案内図や道しるべの設置など、基本的な環境整備を図ることが急務であろう。利用者サイドからみて使いやすく、デザイン的にも環境と調和した秀逸な表示が望まれる。

 そして、次にやるべきことは、主要な移動の手段となる鉄道の駅の改築である。どのホームも、きまって汚れた波型スレートの屋根に覆われ、その下に剥き出しパイプが走り、配線がだらしなくぶら下がっている。おそらく、保守点検上あるいは防災上、こういう構造のほうが合理的なのかもしれないが、経済発展を遂げた国としてはあまりに貧しい印象であり、観光立国を謳うにはそぐわない。

 (ふだん、その駅を利用して、電車を乗り降りする利用者がもたらす巨額の収益を利用者に還元していないという点でも問題である。あの波型スレート屋根に替わる、もう少しマシな素材は無いものなのか? ついでにいえば、地下鉄の駅についても、プラットホーム周辺の環境の劣悪さを指摘しておきたい。ホーム前に広がる壁面は、コンクリの剥き出し成型かタイル張り、もしくはパネル張りである。汚れが壁面全体を覆い、ところどころ滲出した地下水の流れた痕が黒い筋となって刻まれている。ひとによっては、この汚れが暗鬱とした気分をもたらし、精神的に堪えてしまうかもしれない。)

 東京の地下鉄「副都心線」の駅のピカピカに磨き上げられた清潔感までは期待しないが、なんとか少しずつでも主要駅の改築を進めて、美的な印象をアップしてほしいものだ。

 それにしても悔やまれるのは、好景気のときに、どうしてこのようなところのインフラを積極的に進められなかったのかということである。しかし、問題は過去の反省だけにとどまらない。(政治主導に期待するわけでも、依存するわけでもないが、)生活環境の美化や文化の形成という観点が政治家や官僚の価値観のなかにしっかりと根付かない限り、いかに「観光庁」が予算をかけても、日本に来た旅行者が心から楽しめる美しい名所・文化財を保護育成する「観光立国」化という構想は、絵に描いたモチ、根拠の無い夢物語に終わってしまうのではなかろうか。

 経済至上主義・効率中心主義ですべてを解決しようという姿勢は、高度情報化社会のなかでの価値の多様化の時代に、すでに破綻している。にもかかわらず、いまだに各界の指導者たちの考えのなかには、少々、美観を犠牲にしても利潤を優先する経済至上主義が鎮座したままだ。財界だけでなく政界も同じ。政治的指導者が自らデザインやアートへの関心を表明したことはほとんど無い。公害問題には積極的な姿勢を示したとしても、その思考のベクトルを環境美化にまで向ける姿勢は希薄だというほかない。

 話は広がるが、逸早くデザイン教育やアートの教育を国の根幹に据える政策に転換した英国と較べると、いまだに明治時代からの殖産興業の流れ、実学重視の流れに捉われて、美術教育を軽視しているわが国のあり方は、時代錯誤的というほかない。

 すべてを教育に還元するわけではないが、なぜ何十年もの間、主要駅の環境が改善されないのかという問題の背景には、私たちが捉われている価値観の形成という広義の教育の問題がかかわっていることも確かである。

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イーストエッグ、ウェストエッグとはどこだろう―グーグル・アースで遊ぶ

 ところで、フィッツジェラルド作『グレート・ギャツビー』のなかに出てくるニューヨークのま東にある卵の形をした双子の島として描かれているイーストエッグとウェストエッグとはどこにあるのだろうか?

 そのまま単語を入れて検索してみても、それらしい土地は検索できない。とすると、これは創作された島で実在しない場所なのか・・・・。

 いや、おそらく実在する島をモデルにして、地名を伏せ、新たな名前を付したのであろう。そうあたりをつけて、グーグル・アースで、例の擬似飛行を楽しみながら、それらしい土地を探してみた。

 グーグル・アースの前身ともいえるグーグル・神の目では、地表に垂直に位置する、まさに真上からの「神の目」で楽しめたが、グーグル・アースのような低空飛行は楽しめなかった。フライトシミュレータにも似たゲーム感覚の新インターフェイスは快適かつ魅力的だ。

 少し時間が掛かったが、どうやら、それらしい場所が見つかった。その名は、Fly IslandとDuck Island。蝿島と家鴨島といった語感だろうか。場所はフライアイランドが緯度40度55分・経度73度26分のあたり、ダックアイランドが緯度40度56分・経度73度24分のあたりである。北を上として、左側の島であるフライアイランドのシークレスト通り、同様に右側のダックアイランドのアルジャイル通りのあたりを、グーグル・アースで空撮すると・・・・・。

 そこには、まさに小説の記載どおり、つまり、ものの見事に豪奢な家々が並んでいる。日本の感覚で家が並ぶというと家々が肩を寄せ合っている感じだが、この土地では、お隣さんの家までは何十メートルも歩かなければならない。家々は互いに木々に隔てられ、場合によっては林や森に隔てられて、悠然と並んでいる。

 どの家も、きれいに刈り込まれた鮮やかな緑のローンの庭を持ち、ほとんど全ての家がプールを所有している。(『グレート・ギャツビー』の中でもプールは富裕層の象徴として描かれている。また、物語のなかで大きな意味を持つことは周知のとおりである。)白い砂浜が続く穏やかな海まで、ものの数分で歩いていけそうな距離にあるのに、どの家も大きなプールを所有している。詳細な形まではわからぬが、家々も大きい。なんという裕福な暮らし、なんという贅をこらした家々・・・。

 これらの様子を地上を掠め飛ぶグーグル・アースの視覚から目視し、なおさら、イーストエッグとウェストエッグは、それぞれダックアイランドとフライアイランドなのではないかという思いが強くなる。この位置関係ならば、両島の向かい合う家々の灯火が海を越えてちらちらと見えるという小説の中の叙述にも適うし、ギャツビーとトム・ブキャナンが頻繁に出会うような近距離でもないという物語の状況にも適うのである。

 しかし、英米文学の世界では、物語のなかの二つの島の場所は、すでに特定されているのかもしれない。果たして、それは、グーグル・アースで探し出した上の両島なのだろうか? フィッツジェラルドの研究者に教えを乞いたいところだ。

 それにしても、日本の社会では想像すらできぬ豊かな富裕層が、米国にはたくさん住んでいるものだと、あらためて驚かされる。

 たしかに、日本にも富裕層が集まり住む地域はある。戦前から拓けた土地としては、麻布や松涛のあたりや須磨のあたり。戦後でいえば、田園調布や芦屋など。海に近い場所で言えば、鎌倉と逗子の境にある披露山(ひろやま)周辺の大きな区画の分譲住宅地などは案外知られていない富裕層が住む一画である。しかし、グーグル・アースという衛星からの目を利用して比較してみれば、こうした日本を代表する住宅街さえも、アメリカの大都市近郊の住宅の敷地の広さ・建物の大きさにとおく及ばない。グーグル・アースを使った「空撮遊び」によって、こうした苦い真実が私たちに突きつけられることもある。

 

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村上春樹訳『グレート・ギャツビー』を読んで(3)

 リアルに思い出せれば思い出せるほど、読者にとってその文学作品の強度は強いといえる。読者にとって記憶に残る作品が違うことからもわかるように、作品の強度は鑑賞者の個人的な思想/感覚/価値観/経験によって変わってくる。そういう個人の想いに訴求する引き出しをたくさん持っている作品、そして、普遍的・共通的な経験や感覚をベースにした作品が、名作として生き残り、淘汰の荒波に耐え、私たちの手元にまでたどり着く。 

 『グレート・ギャツビー』についてはどうだろうか。この作品の強度はどこから生まれるのだろうか。ここで紹介するのは、あくまでも <私> という個人の印象に基づいた、きわめて個人的な探究である。

 読み終えてから数ヶ月が経ち、その間、まったく異なる種類の小説を読み重ね、私にとっては小説以上に印象の残る美術展を数多く鑑賞した。アートに関する経験だけを拾っても、数多くの刺激を受け続けた後に、『グレート・ギャツビー』という小説のなかで印象に今も残るシーンや事柄は、残念ながら限られている。

 そのうちの一つは第二章2段落目に出てくる、エックルバーグ博士の巨大な青い目だ。これはおそらく今はほかの土地に移ってしまった(エックルバーグ博士という)眼科医が、開院時に道路沿いの荒れ果てた土地に掲げ、そのまま撤去することも忘れ、置き去りにした巨大な看板である。メガネをかけた目の部分だけをトリミングした巨大な看板だが、雨風に打たれ、周囲の灰色の風景に溶け込み、陰鬱さを帯びている。しかし、その巨大な瞳の眼光の鋭さはこの殺風景な土地の荒涼たるランドマークである。

 この古ぼけた忘れ去られた広告の二つの目が、実はこの作品の全編を見下ろし、細部にまで浸透している。

  この物語の主要登場人物のほとんどが、ニューヨークの東方に位置する、ウェストエッグとイーストエッグと呼ばれる二つの島状の土地に住んでいるが、ギャツビーは闇社会との接点の街として、トム・ブキャナンは心置きなく浮気をする密会の街として、ニューヨークとの絆を断ち切ることはできない。このニューヨークと屋敷のあるウェストエッグとイーストェッグを、彼らはときどき車で行き来している。

  彼らは豪奢な屋敷に暮らしている間は、成功した人間の鷹揚さと気品を失うことなく、ダーティーな商売も破廉恥な浮気の翳も完全に隠蔽している。そういう二つの顔を持つ登場人物たちが車で通過する、退屈で無意味な広漠とした灰色の土地に、巨大な目の看板が待ち受けている。しかし、二つの顔を持つ人々にとって、その変身プロセスが無意識であるのと同様に、通過地点の奇妙な広告も灰色の風景の中に溶け込み、特別、注意が払われることはない。擬人化して言えば、この広告の鋭い瞳だけが、二つの世界を行き来するギャツビーやトムの正体を見透かしているのである。

 物語のなかでこの巨大な目がもう一度出てくるのは、第八章の、トムの浮気相手の女の夫ウィルソンが交通事故によって失われた亡き妻の浮気行為を詮索し、彼女を轢き殺した犯人を探す執念を友人に垣間見せる場面である。少し長くなるが引用してみよう。

・・彼は難儀そうに立ち上がり、裏窓のところに行った。身を乗り出し、窓ガラスに頭を押しつけた。「――そして言ったんだ。『神様はお前が何をやってきたか、ごらんになっている。何もかもをごらんになっている。お前は俺をあざむくことはできるかもしれん。しかし神様はあざむけないぞ!』ってな」 [改行] ウィルソンの背後に立ち、彼の見ているのがT.J.エックルバーグ博士の目であることを知って、ミカエリスは度肝を抜かれた。その二つの目は、薄らいでいく夜の闇の奥から、大きくぼんやりと浮かび上がってきたばかりだった。

 「神様はすべてをごらんになっている」とウィルソンは繰り返した。「あれはただの広告板だよ」とミカエリスはウィルソンに言い聞かせた。[後略]

 このあたりの描写はシナリオライターとしても名を馳せたフィッツジェラルドの面目躍如といえるだろう。灰色の土地の陰鬱な看板の近くに、誰の脳裏にも過ぎらない無名の男がひっそりと暮らしており、その男が何者かに妻を寝取られ、あげくの果てに殺されたと気づいたときに抱いた憎悪に彩られた狂気を見事に描き出している。村上春樹の訳も力まず淡淡と訳すことで原文の魅力を引き出している。

 豪奢な暮らしをするギャツビーやトム・ブキャナンと対照的に、アメリカンドリームの背景に押しやられたまま、黙々と働き、日々の糧を得るのが精一杯である当時の労働者階層の象徴としてウィルソンを配置することで、『グレート・ギャツビー』はアメリカン・ドリームそのものの虚偽性を暴く社会的なパースペクティブを獲得している。私小説の形態を取りつつ時代に翻弄される社会を切り取ってみせた太宰治に似て、フィッツジェラルドの小説には、短編と長編の別なく、鋭い社会批判と辛口の時代風刺が籠められている。いうまでもなく、この小説に欠かせないスポーツカーやビルボードという道具立てもまた、モータリゼーションと過熱する資本主義の象徴である。

 物語のすべてを見通す神の目として、読者の中に無意識に刷り込まれた巨大な目に向かって、神に願いを託すようにウィルソンが呟くとき、読者にはギャツビーの破綻が明確に意識化される。結末への急展開に読み手を誘う象徴的なシーンとして、この引用箇所が忘れられない。

(このテーマ:おわり)

 

 

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村上春樹訳『グレート・ギャツビー』(スコット・フィッツジェラルド著・中央公論新社版)を読んで(2)

 この小説の巧みさは、距離の感覚というものを巧く活かしているところに表れている。ウェスト・エッグとニューヨーク、ウェスト・エッグとイースト・エッグ、東部と西部、ギャツビー家と隣接する我が家、アメリカとイギリス、こうした遠距離、近距離を移動するとき、ひとはどのような意識の切り替えをするのか、そうした移動というありふれた営みに潜んでいる魔術的ともいえる大きな影響を、フィッジェラルドは劇的な場面へと人を誘うプロットとして、うまく利用している。

(今度は極端に短い文となった。つづく)

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村上春樹訳『グレート・ギャツビー』(スコット・フィッツジェラルド著・中央公論新社版)を読んで(1)

長いインターバルへの長いいいわけ 

  ブログを公開している者として、若干、不謹慎の謗りを受けかねない事かもしれないが、久々に書き込み用のブラウザを開いてみて、そのシンプルなデザインに懐かしさを覚えてしまう程、このサイトを留守宅のままにしていた。誰に謝る必要があるわけでもないが、なんだか後ろめたい。というのも、私の恩師であるO.M.氏は、何年間も、よほど体調不良の時を除いて、毎日、映画日記を綴り続けていらしたからである。おそらくは、別の形での展開をお考えなのであろう、最近は過去の映画日記の組み換えを時々する程度の更新になさっているが、凄い克己心である。克己心などという言葉を綴ってしまうところに、私のブログへの熱の入れ様が疑われかねないが、師の場合はどうなのだろうか? たぶん、伝えたいメッセージがマグマのように脳髄の中に滾っていて、毎日のブログ執筆は、小さな蓋を捻るごとき軽やかな所作に過ぎないのだ。いやいや、そんなことは無い。毎日、映画1~2本をホームシアターで観賞し、監督や原作者や俳優の情報、リバイバルならば前作の情報、そして、一般の反応と映画批評の世界での評価などの情報も参照した上での入念な執筆である。そこには、やはり、集中力を維持し、毎日書くという、自ら課したタスクを果たす克己心というものが存在しているに違いない。そういう恩師の映画日記との比較をするまでもなく、一、二ヶ月を空けてしまうというのは、ブログの世界では非常識に属することであろう。ちょっと、フリッカーのほうにのめり込み過ぎてね・・・・などという言い訳はかえって惨めだ。それにしても、映像と文章、その両方の表現欲を重ねて、一つのテーマで展開するという資質が自分に欠けている事に気づいた日々でもある。本来は、絵日記風にFlickrもココログも関係付けながら展開できればよいのだけれども・・・。

 前置きが長く続くスタイルは健在 というよりも、病状悪化しているね、といまさらながらに自嘲! 声を出して笑ってやりたいくらいだ。

立ち止まって考える事が多かった翻訳

 前回のヘッセの後、平行して読んでいた小説が何冊かあった。そのうちの一冊が村上春樹訳の「グレート・ギャツビー」だ。前回までの高橋健二訳の「デミアン」も、歯車が滑らかに回転するごとき読みとは程遠い重い足取りでの読書だったが、今回の村上春樹の訳によるフィッツジェラルドも予想よりは、もたついた読書となってしまった。その点に絞って言うと、村上自身の小説が持つ独特なリズムを持つ内省的な文体とは異なり、翻訳の文章は、やや縺れた、読みのリズムを崩す硬さがあるように感じられた。これはどういう意味なのだろうかと、立ち止まって一文をしげしげと眺めなくてはならないときもあった。ただし、これは村上春樹がすべて自覚的に行なっている仕業に違いないとも思った。

  たとえば、第六章の194頁には、「あの人のこと好きになったな―なんていう名前だっけ―青っぽい鼻の人」という文がある。青っぽい鼻で躓いてしまい、古本屋で買っておいた講談社英語文庫版の「華麗なるギャツビー」で原文にあたったら、次のように書かれてあった。"I liked that man-what was his name? -with the sort of blue nose" 市販の普及している辞書で調べると、blue noseには禁欲的な とか清教徒的な、という意味が載っていた。そういう意味も含むのかな等と思いながら、講談社英語文庫の巻末に付録としてついているノート欄をみると、翻訳家の角地幸男氏が、with the sort of blue noseを「いかにもカナダ人らしい」という意味に解して、そう記載している。(清教徒的にせよカナダ人らしいという訳にせよ、剥き出しの繊細な触覚に触れれば、差別的な見方、あるいは偏見を助長する見方の部類に放り込まれかねないblue noseの意味かもしれないが、言葉の世界においては、一つの語義が、ちょっとやそっとでは予想もできない連想や意味づけの歴史を持っているので、感覚的な即断がかえって、その判断者の偏見を露呈させてしまうということさえある。)

  そこで語義の解読から離れて、もう一度、フィッツジェラルドの描き出した盛大なパーティーの華やぎ、そして雑然とした賑わいを想像してみると、そこかしこで交わされる冗談や辛らつな皮肉やあてつけや、見え透いたお世辞に彩られた会話の中身としては、軽妙洒脱な風変わりな表現こそふさわしいことに気づくのである。このような迂遠な回路を巡ってではあるが、やはり、この会話文のなかでは、「青っぽい鼻の人」でなくてはならないと、私は村上春樹の訳出の正当性を確信したのである。たとえ、それが二重・三重の意味を担っていたとしても、である。

 例によって、尻切れトンボの内容となったので、もう一回か二回、この小説について触れてみようと思う。(つづく)

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ヘッセ『デミアン』の余白に―2―

  『デミアン』に限らず、小説内部で展開する世界そのものが全て作者の想念から生まれた幻影世界である。小説が持つリアリティは、個々の読者によって異なるものである。なぜならば、小説のリアリティとは、読み手が経験してきたさまざまな事象の記憶を知らず知らずのうちに参照しながら、感じ取るものだから。あるいは、わたしたちが<現実>と呼ぶ事象の起承転結の流れに照らし合わせて、感じ取るものだからである。

  事実は小説よりも奇なりという言葉が示すとおり、小説の珍奇な筋立て以上に突飛な「偶然」や隠された筋書きの唐突な出現が、わたしたちの生にはつきものである。それは、纏綿と綴られた緻密な小説の筋立てよりも、はるかに無秩序で予想のできない穴だらけのストーリーである。この筋書きともいえぬ筋書きに巻き込まれるとき、ひとが感じるザラザラした粗い手触りこそ、「現実」と呼ばれるもののリアリティの正体なのかもしれない。

  岸田秀を持ち出すまでもなく、つきつめていけば唯幻論的な解釈を可能とする意味の網目の世界を私たちは現実として認識している。奇跡という現象もまた、そうした意味の世界から現実に立ち現れる現象の一つである。

  そう考えると、ファンタジックな小説のなかの不可思議な世界も現実とかけ離れたものとはいえなくなる。小説と現実とは、相互に境界を侵食しあい、それぞれの世界を構築する意味づけを互いに参照しあっているのである。それぞれの世界を紡ぎだす方法は異なるが、意味づけについては、共有する部分を持っている。

  この現実と小説を結びつける想像力や意味付与・解釈の働きが活性化するもう一つの場として、夢の世界がある。夢もまた、幾重にも選択可能なストーリーのなかから、夢を見る主体がチョイスをし、解釈可能な形にまで整形し、ある種のリアリティーを持たせた創作物である。その整形のモメントが果たしてフロイトが言うように禁欲から生じた検閲という仕組みなのかどうかはさておき、悪夢も予知夢も願望夢も、幾重にも変装しながら、かろうじて勝ち取ったリアリティを披露する表現の場である。

  それは意味付与と解釈から成り立った世界であり、その世界の片翼は日常の生活のなかで得られたリアリティの感覚に触れ、もう一方の翼は、読み、眺め、聴いた文化形成物(この場合は小説)から得たリアリティ構築の動きに触れている。

  ときとして、夢と小説世界が限りなく近い存在に感じられるのも、両者の領界を浸透しあう意味の層が存在していることの証である。

  小説が夢に、夢が小説になる往還運動がたえず行なわれており、そこに現実と呼ばれる認識の場が深くかかわってくれば、現実と区別のつかぬリアルな夢に捉われ、小説に似た展開の現実が姿を現し始める。

  また、場合によっては、夢のような現実が姿を現す場合もあろう。夢の認識の枠組みに引き寄せて現実を認識したとき、ひとはスピリチュアルな、ある種、非合理、不合理、夢のような現実に遭遇するのだともいえる。

  夢から現実へ、現実から夢へと流れ入る一つの意味の伝達系として、象徴を軸にした認識の形成がある。現実に隠された神秘的な意味を読み取る解読格子として、また、夢に隠された現実的な意味を発見する手がかりとして象徴というものがある。形象化された象徴もあれば、音や響き、言語化され言葉として現れる象徴もある。この象徴という、意味を呼び寄せるマグネットのような存在を携えて、わたしたちは、たやすく夢から現実へ、現実から夢へと行き来することができる。比喩的に言えば、象徴は、現実と夢の領界を繋ぐ意味の伝達通路を捜し出すサーチライトのようなものだ。

  以上が、前回、田中 裕氏によるシンクレール=デミアン説を読んでから、『デミアン』に限らず、そもそも、小説世界が実現しようとしているリアリティとは何を意味するのかという素朴な疑問が湧き、考えたことの一つである。

 また、この小説をヘッセが実名で出さなかった理由についても考えてみた。

  読者の立場から考えてみると、すでにドイツ語文化圏で詩人そして小説家として名声を博していたヘッセが実名で小説を書けば、自ずとそれは、ヘッセの思想を形にした創作物となる。読者は、ヘッセという小説家が、自らの思想を反映させた思想の乗り物として『デミアン』を受け取ることだろう。

  これでは、ヘッセという自律的に思想を編み、小説を拵える主体の存在が作品の前景に立ちはだかってしまう。ところが物語の話者シンクレールと同名の作者名をもって著作を世に問うということは、それだけである種のいかがわしさを醸し出すことに成功することを意味している。

  何者かの思想の反映物でありながら、その何者かの正体はみえない。まさに、アサーティブな個の表明とは正反対のいかがわしさだ。偽名という偽名にはすべてこの種の戦略が隠されている。

  読者は、この小説の夢幻的な内容、そして、常に崩壊しそうな主人公の自我の危うさ、さらに、時として唐突に湧き上がる殺意や自殺願望という危険なテーマの源として、見知らぬ名前の新人を想像する。いいかえれば、ヘッセという自律した思想の持ち主から生れ落ちた作品として、冷静に作品批評をする余地は奪われ、主人公と同じ名前の、小説技法としても、速射的な早い書きぶりの、おそらくは新人の未熟な、それだけに、原石の魅力を湛えた作品と向かい合わざるを得なくなる。

  そのとき、まさに自由な批評の言語を読者は獲得できるのだ。そうした思惑=戦略をヘッセは抱いていたに違いない。そして、その思惑はみごとに当たり、『デミアン』は無名の作家が書き上げた謎に満ちた蠱惑的な作品としてもてはやされ、大きな成功を収めることになる。

 韜晦になったが、冒頭に述べたとおり、主人公のシンクレア=デミアン説は、幻想的な小説世界なのだから、当然、ありえる話である。しかし、そういう前提的な話とは別に、叙述上のトリックとして、シンクレア=デミアンという可能性を保証したり暗示したりする手の込んだ描写はなされているのだろうか。そして、シンクレア=デミアンであるという結論は、ドイツ文学(とりわけヘッセ研究)の権威が唱えているとはいえ、留保しておいたほうがよいのだろうか、あるいは、踏み込んで、同じ結論に達すべきなのだろうか。

  この点について、小説の細部に当たってみよう。

 まず、デミアンの登場箇所。(出典ヘッセ著 高橋健二訳『デミアン』岩波文庫 初版:昭和26年)

「私たちのラテン語学校に、少し前ひとりの新しい生徒がはいって来た。彼は、私たちの町にひっこして来た裕福な寡婦の息子で、そでに黒い薄ぎぬの喪章をつけていた。私より年はだいぶ上で、上の級にはいったが、彼はまもなく私の注意をひいた。もっとも彼はみんなの注意をひいていた。この一風かわった生徒は外見よりはずっと年長らしく、だれにも少年だという印象は与えなかった。私たち幼稚な少年のあいだを、おとなのように、否むしろ紳士のように、異様に、できあがった様子で立ちまわっていた。彼はみんなに好かれてはいなかった。彼は遊戯に加わらなかった。つかみあいなんかにはなおさら加わらなかった。先生に対する、自覚した、きっぱりした調子だけがみんなに喜ばれた。彼はマックス・デミアンという名まえだった。」

 デミアンにたいするシンクレールの感情が綴られた箇所は次のような叙述だ。

「彼の顔は一種独特に私を魅了した。その賢そうな、明敏な、並みはずれてしっかりした顔を、注意深く才気をたたえて作文の上にかがめているのを、私は見た。(中略)・・・私は彼に対しある反感を持っていた。彼は私に対しあまりに立ちまさっていて、冷やかで、その態度はあまりに見おろすようにしっかりしていた。彼の目は、子どもにはけっして好かれないおとなの表情を持っていた。(中略)・・・私は彼をたえず見つめずにはいられなかった。だが、彼の目が私に注がれると、私はぎくっとしてまなざしをひっこめた。」

 次に、シンクレールとデミアンの最初の対話は、こんなふうに書かれている。

「学校から帰途、彼は、私のうしろからやって来た。ほかの者たちが散り散りになったとき、彼は私を追い越して、あいさつした。(後略)「少しいっしょに行こうか」と、彼は親しげに言った。私は気をよくして、うなずいた。そうして、自分の住んでいるところを説明した。「ああ、あすこか」と、彼は微笑して言った。「あの家なら、もう知っているよ。きみの家の玄関の戸の上にはとても奇妙なものがついているね。あれにはぼくはすぐに興味をひかれたよ」 彼がなんのことを言っているのか、私にはすぐには見当がつかなかった。そして、彼が私より私の家をよく知っているらしいのに、私は驚いた。」

 ここまでの叙述では、なんともいえない。登場場面には裕福な寡婦の息子として、デミアンの客観的な属性描写がなされているが、勉学に没頭するデミアンの表情については、幻影をみたシンクレールの叙述にすぎない可能性もある。「彼が私より私の家をよく知っているらしいのに、私は驚いた」という描写は、むしろ、シンクレール自身の分身がデミアンであることを暗示しているようにみえる。

 次に、クラスの生徒たちのうわさの描写をみてみよう。

「デミアンは彼の級のものといっしょに、慣習の命令に従って教会で堅信礼を受けはしなかった。それにもまたすぐにうわさが結びついた。彼は実際はユダヤ人だとか、あるいは、いや彼は異教徒だとか、学校ではまたうわさが立った。彼は母親とともにまったく無宗教だとか、だいそれた悪い宗派に属しているとか、主張するものもあった。それと関連して私は、彼は母親と恋人相手のように暮らしているという疑いも、耳にしたように思う。おそらくそれは、彼がいままで信仰なしに育てられてきたということを意味していた。」

 次は、大学生のデミアンにやはり同じ大学に進学していたシンクレールが再会する場面。シンクレールはデミアンが同じ大学の学生であったとは知らなかった設定である。

「胸をどきどきさせながら私は彼が弾力のある直立の姿勢で私のほうに向かって来るのを見た。彼はネズミ色のレインコートを着、腕に細いステッキをかけていた。規則的な歩調を変えないで、私のすぐ前まで来ると、彼は帽子を取って、口のきりっとして、広い額に独特な明るさのある、昔ながらの明るい顔を私に示した。 「デミアン!」と、私は叫んだ。彼は私に手をさしのばした。「じゃ、きみだったのか、シンクレール! きみを待ち受けていたよ」「ぼくがここにいることをきみは知っていたのかい?」「それは知らなかったけれど、断然そうなるだろうと思っていたよ。」

 そして、デミアンとシンクレールが迎える別れのシーンは次のように書かれている。未読のかたにとってネタばらしになるといけないので、簡単に・・・・。

 戦争で傷ついたシンクレールは運び込まれた野戦病院にて、やはり傷病兵として横たわっているデミアンを発見する。再び出合ったデミアンは、シンクレールにたいして、自分(デミアン)の助けが無くとも十分やっていける人間に成長していることを語り、励ます。その翌朝の描写。

「朝、私は起された。包帯されるはずだった。ようやくほんとに目がさめたとき、私は急いで隣の下敷きのほうを向いた。そこには見たこともないよその人が寝ていた。」

  このように、デミアンに対する同級生の噂話から、別れの場面までの三箇所を抽出し、検証すると・・・・

  同級生のうわさについては、シンクレールは同級生の側からデミアンを眺めており、信仰の違いを意識している。しかし、異和なるもの、異形なる者への強い興味とシンパシーも読み取れる叙述である。

 大学での再会のシーンにみられる丹念に描きこまれたデミアンの服装についての叙述は細部に及んでおり、とても幻想のものとは思えない描写なのだが、偶然にも同じ大学に進学しているという筋立てと、デミアンの意味ありげな言い回しは、シンクレール=デミアン説・・・もう少し、はっきりといえば、デミアン=シンクレールの分身説を支持するお膳立てのようにも思える。最後のパートは、明らかに、幻影としてのデミアン像を強く印象付けるために、作者が用意した場面設定である。ここでも、傷病兵として偶然にも隣り合わせになるという筋立ては、デミアンとはシンクレールの影(ユングのいうシャドー)に過ぎないことを暗示している。何度も偶然を用意して、筋を展開する小説は、そのご都合主義ゆえに稚拙であるという評価を免れない。にもかかわらず、この『デミアン』という小説の中では、その偶然の出会いという筋立てが頻繁に用意されている。あえて強調されているといってよいくらいだ。偶然を強調することで、作者はデミアンがシンクレールの想像上の産物にすぎないことに注意を促しているともいえそうである。

 こう仔細にみてくると、デミアン=シンクレールの分身説にかなり傾いてくる。しかし、上記では省いたが、小説の重要な要素として、デミアンの母親にシンクレールが惹かれていく描写は、デミアン=シンクレールの分身説の検証にとって重要である。

  この母親は、その言動から察すると、ある意味ではデミアン以上に神秘的な世界の住人なのだが、知識人/文化人/芸術家などの取り巻きを従えているという、かなり現世的な側面も兼ね備えている。妙に、存在感のある人物設定であり、この点が引っかかる。

  デミアンの母親が現実的存在として描かれているならば、デミアンを幻影として捉えることは難しくなるのではないか。母子共に現実的存在であり、「奇妙な血族」として位置づけたほうが、物語の輪郭は明確になる。そういう想いに捕われる。しかし、次の二種類の可能性も捨てきれない。

  デミアンはシンクレールが創りだした幻影だが、デミアンの母親は、存在しており、デミアンを巡る記述のみ、シンクレール個人の幻想、もしくは、シンクレールとデミアンの母親とされる人物による共同的幻想、という可能性。

  もう一つの可能性は、デミアンもデミアンの母親もすべてシンクレールが創り出した幻影であるという設定。

 いずれにしても、こういう状況設定―つまり、幻影が二重三重に重なってくる設定―によって描き出された世界として、『デミアン』を捉えた場合、シンクレールの人格的分裂の状態の深刻さが浮き彫りになる。デミアンおよびデミアンの母親が幻影であると仮定した場合、彼らの服装や表情、活動や会話の内容は、それぞれ人格的な纏まりが感じられ、存在感がある。ここまで、リアルな幻影を抱えていることから推して、シンクレールの人格分裂という現象は、人格崩壊という危険な領域に差し掛かっている。

  それはちょうど、ダニエル・キイスの『24人のビリー・ミリガン』という著作のなかのウィリアム・スタンリー・ミリガンという実在の人物が陥った多重人格の状態に酷似している。

  こちらの物語の主人公に当たるミリガンは、ある人格になっているときには、彼の心の中に同居しているはずの他の人格とは、情緒的な反応も、行動様式も思考の赴く方向も、そして思考力も、さらには物事の価値観も変わってしまう。

  しかも、他の人格が行なった行為を覚えているときにも、違和感を伴う他者の行為として捉えている。『24人のビリー・ミリガン』のなかには、ビリーの親が実際に面会しに来ても、自分の中の別の人格―すなわち、他者―の親としてみつめ、羨ましがるほどに、分裂し崩壊した人格が描写されている。(この事例を当て嵌め、シンクレールが多重人格者であるとするならば、デミアンの母親が自分の母親である可能性も生まれてくる。もちろん、そうした解釈は、ありうる可能性の一つを探るゲームのなかで言えることであり、作品読解上は意味を成さないが・・・。)

  いずれにせよ、ヘッセの描いた『デミアン』という小説世界を、『24人のビリー・ミリガン』で明らかにされた多重人格的世界の描写として捉えなおしてみることは可能である。もちろん、そうした試みが豊穣な意味をもたらすかどうかはわからないが・・・・・。(たとえば、デミアンから観たシンクレールを描けば、そこには、いっそう生なかたちで一つの狂気が描き出されるかもしれない。そのような意味で、『デミアン』という小説の余白にあそぶこともできるかもしれない。『デミアン』と共に書かれていた『シンクレール』という名の小説の存在・・・・・。)

  結局のところ、デミアン=シンクレールと看做すべきかどうかは、それこそ、読み手の想像力に委ねられた問題である。

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(これにて、『デミアン』の呪縛から離れます。履歴:翌日に文章を書き換えています。)

 

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ヘッセ『デミアン』の余白に―1―

 前回、スチュアート・ヒューズを援用して、歴史の大きな潮流の中に、『デミアン』という作品を位置づけた後、現代日本の時代の空気と照らし合わせて眺めてみたのだが、作品そのものの「謎」については、ほとんど言及できなかったので、気になっていた。

 そういうときに市民図書館で、ふと手にした田中 裕著『ヘルマン・ヘッセ 人生の深き味わい』(1997年 K.K.ベストセラーズ)に、面白い記述があったので、書き留めてみよう。

 「その後も[=クローマーという少年からの陰湿な虐め・恐喝の後も] デーミアンはシンクレアが困難におちいり、本当に助けを必要としているときにのみ姿を現す、守護霊のような存在だ。だが、この作品を最後まで読み進めると、このデーミアンは実在の人物ではなくて、シンクレアの内部にあって、シンクレアが理想としている存在のイメージを、人物であるかのように形象化した一種のまぼろしなのだ、ということが次第に明らかになってくる。だから、シンクレアとデーミアンとの対話は、シンクレア自身の心のなかで行なわれたものであり、クローマーを追い払ったのはじつはシンクレア自身だったのだ。(134-135頁・[ ]内は引用者補注)

 田中 裕氏(中央大学教授/専攻 ドイツ文学)は、ヘルマン・ヘッセ友の会および研究会の副会長であり、ヘッセ書簡集の翻訳に当たった研究者。そのキャリアの長さや業績からみても、このヘッセ研究者の言葉は重い。

 迂闊なことに、私自身は、主人公のシンクレール=妖しい友人デミアンというトリッキーな設定については、考えてもみなかった。離人症的というべきか、多重人格的というべきか、(どのような定義がふさわしいのかわからないが、) デミアンという存在に関わるすべての記述が、主人公が自己変革を求めるあまり編み出した空想の産物にすぎないというこの大胆な解釈は、それこそ想像の範囲を超えていた。

(つづく)

 

 

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時代の空気とシンクロするヘッセの小説『デミアン』―その4―

 スチュアート・ヒューズ(H.Stuart Hughes)は1916年にニューヨークで生まれ、ハーバード大学にて芸術修士とPh.Dを取得後、ハイデルベルク、ミュンヘンの各大学で学び、パリで働いた。第二次大戦中は、イタリア、ドイツで情報関係部署の将校として働き、戦後は国務省ヨーロッパ研究部門で働いた後、スタンフォード大学を経て、ハーバード大学の歴史学教授の座に就いていた。

 ヒューズの著作の特徴は、歴史上の事件や社会的事象との相関において、文学や美術等の芸術と哲学や政治思想を物語る鮮やかな語り口にある。歴史的な事象が始まるに先立って、醸成された時代の精神を見極めるドキュメントとして文学や哲学を紐解く方法と、歴史的な事件の反映として芸術作品を位置づける手法を巧みに絡め併せて論述し、人類の精神史を浮かび上がらせる筆致はきわめて魅力的だ。もちろん、作家同士の影響やジャンルを超えた人と人の結びつきという側面も十分にチェイスしている。

 ヒューズは、さしずめ、歴史という壮大な叙事詩を朗々と読み上げる吟遊詩人に譬えることができるかもしれない。その該博な知識量について言えば、SF映画等に現れる宇宙人が地球の文物を理解するために、大きな図書館の蔵書すべてを何時間かで読み終えてしまう場面を連想させる。彼の頭の中には、いったいどれだけの思想書や文学作品がファイルされているのだろうか?

 そのスチュアート・ヒューズの『意識と社会』(Consciousness and Society:The Reconstruction of Europian Social Thought 1890-1930/ みすず書房、1970)のなかで、ヘッセの『デミアン』(『意識と社会』翻訳書表記はデーミアン)がどれほど大きなインパクトを当時のドイツの読者に与えたかについて、トーマス・マンのエッセイが引用されている。

 「この作品はうす気味悪いほど正確に時代の神経を打ち、若い全世代から感謝と狂喜を呼び起こした。かれらは自分たちのいちばん内面の生活の解釈者が自分たちのなかから生まれ出たと思ったのだ。ところが、かれらの求めていたものを与えてくれたこのひとは、すでに四十二にもなるひとであった。」ヒューズ自身孫引き/原典不明)

 この一文は、『デミアン』という小説が、はじめ、主人公と同名の偽名で出版された経緯を物語るとともに、とりわけ当時の青年層に大きな影響を与えたことを示す証言だ。

 なぜ、当時のドイツの若者たちに『デミアン』がこのような大きな影響をもたらしたのか、ヒューズは『意識と社会』のなかで次のように簡潔に分析している。

 「第一に、その小説は倫理的誠実、個人の本性と調和する生活を追求するたたかいの記録であった。」

 「子供のころからただ嘘ばかりて゜育てられてきたと感じている世代にとっては、この単純明快な倫理的宣言はひとつの啓示となった。とくにドイツにおいては、青年たちは中産階級の社会の欺瞞的な敬虔さに窒息しそうになっていたし、さらに戦争そのものに関する真実が組織的に歪められるという侮辱もおまけに加わっていた。」

 「若いひとびとには、これらの価値[補注/個人の価値および人道主義の価値]は劣悪な社会形態に奉仕するためにおそろしくねじまげられ悪用されてきたと感じられていたものであった。」

 「不可思議なマックス・デーミアンは、ニーチェ的な「背徳者」であり、額にはカインの刻印を帯びてはいるけれども、暴力ないし直接行動の使徒とは正反対の存在であった。・・・かれは人道主義者であった。」

 「『デーミアン』の著者は自分自身の魂の弱さを知っていた。それは、かれが経験したドイツ精神の弱さでもあった。死への惑溺、自殺の空想、病的な社会的神秘主義、戦争に続く道徳的・知的基準の一般的弛緩のなかで、数多くのドイツ人はこれらの精神的悪徳への耽溺に身を委ねつつあった。」(五箇所の引用は全て『意識と社会』261-2頁)

 『デミアン』が受け入れられた時代的な背景には、惨憺たる結果での敗戦という憂き目をみたドイツ国民の、特に若い世代が抱いた社会に対する不信感、そして、プロパガンダのなかに混入させられたことで、地に落ちた人道主義と個人の尊厳を取り戻そうとする精神があったことをヒューズは見逃さない。

 果たして、この『デミアン』という著作が、ヒューズが述べるほど、人道主義的かどうかについては疑問の余地が大いにあるところだが、作中、主人公の青年が、善と悪の間にピンと張られた綱の上を危ない足取りで行きつ戻りつしながら、精神的な価値を捜し求める様子は、すべての価値が崩れた時代における新たな教養主義の模索形態には違いない。

 それにしても、なぜ、『デミアン』を読んでいると、現代日本の時代の空気と響き合う律動を感じるのだろうか。このブログに掲げた肝心の表題について、直接、説得力のある答えを出すことは難しいのだが、「死への惑溺、自殺の空想、病的な社会的神秘主義、戦争に続く道徳的・知的基準の一般的弛緩のなかで、数多くのドイツ人はこれらの精神的悪徳への耽溺に身を委ねつつあった」という箇所が示唆的である。

 もちろん、無謀な開戦に踏み切ったドイツが蒙った第一次世界大戦の悲惨な状況(170万人を超える戦死者)と、今の日本の社会は、似ても似つかぬものだろう。しかし、盛んに喧伝された経済復調の実感など全く味わえないままに、バブル崩壊から現在に至るまで続く(生活実感上の)不況下で、極端な格差社会が姿を見せ始めた社会の混乱もまた、そうとうに深刻であるといわざるを得ない。

 そうした状況のなかで、病的な神秘主義に惹きつけられたり、自殺へと誘引される衝動を覚える人が数多くいるのは周知の事実である。

 長く暗い交響曲のなかで重く鳴り響く重層低音のように、いまの社会には、底知れぬ不安が渦巻いている。いつ炸裂するとも知れない狂気に支配された人々の存在を怖れつつ、自らもまた、狂気に取り込まれないように、何かに縋りつかなくてはならない現代日本社会に特有の精神的危機。

 そうした時代の空気に響きあう、何もかも根拠の危うい謎に満ちた世界が、『デミアン』の中に時代を超えて息づいている。その鼓動が読む者にリアルに伝わってくるのだと、言えはしまいか。

(このテーマ、おわり。なぜ『デミアン』という作品が現代的と感じるのかという問いについては、再考したいと思いますが・・・。)

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時代の空気とシンクロするヘッセの小説『デミアン』―その3―

 前回、『デミアン』が書かれた前後のヘッセが置かれた苦しい状況を述べたが、もう少し、対象から視点を引き剥がして、遠くから眺めると、この時期のヨーロッパの知的世界の大きなうねりの中に、この作品を置きなおして見ることができる。

 こうしたマクロな退き(ひき)の操作に役立つのが、スチュアート・ヒューズの思想史的なアプローチである。ミクロに突付いているだけでは、見えてこない時代の大きな潮流を掴むためには、ヒューズの本が大いに役立つ。

(私とヒューズの翻訳書三部作との出会いは、はるか学生時代に遡る。横浜国立大学の学部、卒業後の聴講生や大学院生の時代に、泉谷周三郎先生や古田 光先生の授業を受ける機会があり、思想史の方法論に興味を持った。その頃、おそらく、どちらかの先生の講義のなかで、この著者のことが話題になったのだと思う。たしか『意識と社会』から読み始めて、面白くて、『ふさがれた道』『大変貌』を立て続けに読んだはずだ。同時に、この三部作の翻訳者の一人である生松敬三の一連のエッセイや論文も捜し求めて読んだ記憶がある。)

(つづく) 

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時代の空気とシンクロするヘッセの小説『デミアン』―その2―

 前回、「間奏曲のようなかたちで登場するピストーリウスという青年」と、書いてしまったが、それほど軽い位置づけの作中人物では無いことを知った。小説の構成上はたしかに、「私」とデミアンの出会いと再開の間に登場するピストーリウスなのではあるが、この人物は、ヘッセが実際に出会った現実の人間をある程度モデルにしていることを文献から知ったのである。その文献とは、ベルンハルト・ツェラー著『ヘッセ』(井原恵治訳・理想社・1981年)である。

 ところで、文芸批評関係の雑誌で、忘れた名前を思い出すかのように、間歇的に組まれるヘッセの特集を除くと、一般書籍として入手できるヘッセ関係の研究書は驚くほど少ない。ツェラー著『ヘッセ』は、その意味で貴重であると同時に、内容もヘッセ自身の文学的成果と生活上の起伏を照合して、丁寧にヘッセの「人と作品」に迫る良書だと思えた。この著作のなかで著者は、ピストーリウスが、C.G.ユングの弟子の一人で医師のヨーゼフ・ベルンハルト・ラング博士と「本質的によく似た性格」であると書いている。

 小説のなかで、「私」=シンクレールは、ピストーリウスに出会って、しばらくの間、彼をスピリチュアルな世界に導いてくれる導師として敬い、ピストーリウス自身が悩む姿を気高い精神の彷徨者につきものの懊悩として捉えている。もしも、ツェラーの説に立つならば、それはヘッセとラング博士との関係を暗示している。

 「1916年6月から11月のあいだに約六十回の面接がラング博士のもとで行なわれたが、それはしかし、まさしく評論家バルが強調するように、医者の治療というよりはむしろ厳密な意味では、友人同士の精神療法的な対話と考えねばならない。それがヘッセの体験領域を全く決定的に拡大し、彼が詩人として、また人間として発展するための新しい手掛かりを得る道を開いたのである。」(B.ツェラー著『ヘッセ』から)

 この時期、ヘッセがユング派のカウンセリングを受けることになる背景には、彼を幾重にも取り巻く、社会的、私的難渋状況があった。第一次世界大戦勃発時、彼はすでに二年間スイスに住んでいたが、ドイツ領事館に赴き、国民軍の徴兵検査に応じている。しかし、おそらくは強度の近視のため兵役不適格として徴兵延期対象者となり、捕虜保護勤務に従事することになる。これはドイツ国民としての義務をヘッセがどのように受け止めていたかを表す逸話となるだろうが、彼の信条ははじめから明確な反戦主義であった。

 「ヘッセは、最初から断固として狂信的な国粋主義と野蛮行為に反対し、平和のために力を尽くしたきわめて少数のドイツ詩人たちの一人であった。・・・彼は、<裏切り者><無節操者>とドイツの新聞でののしられ」 たのである。(括弧内:B.ツェラー著『ヘッセ』)

 私的な問題も山積し、ヘッセを圧迫する。

 「末っ子の危険な発病。1916年の父親の死、結婚生活の危機、最後には妻の精神錯乱の突発となり、それで彼女をしばらく療養所に移す必要が生じた。」(前掲書)

 もともと内省的で自己省察の志向性がきわめて強いヘッセは、いま目の前で起きている社会的・私的な「惨事」の源を探究する求道者として、あたかも自分の体にたいして人体実験を施す科学者のように、自らの精神を解剖して、「惨事」を産み出す人間の壊れた器官を摘出するのである。

 「私は自分自身のなかに世界中のあらゆる戦争と殺人欲、その軽率さ、野卑な享楽欲、その臆病さを再び見出し、初めは自分自身にたいする尊敬の念を、次に自分自身にたいする軽蔑の念を失い、混沌を奥底まで見つめ、ときには燃え上がり、ときには消えそうになる希望を抱きながら、その混沌の彼方に再び自然を、再び純潔な素朴さを見出す以外に道はなかった。」(ヘッセ『芸術家と精神分析』/前掲書からの孫引き)

 攻撃欲、正当化された殺意、サディズム、享楽主義・・・これら、世界大戦のさなかに隣人たちが互いに見せあうことで露呈された、(壊れやすい/すでに壊れてしまっている)壊れ物としての人間として、自分を受け入れること。ヘッセが自分に課した分析は、かくも救いの無い暗澹たる価値喪失への旅立ちだった。悪を切り離し、断罪し、殲滅するという思考の限界を、戦争へと突き進む同胞の姿に見てしまったという理由も、そうした自己への旋回にかかわっているであろう。しかし、ここには、世界の頂(いただき)で、全人類を代表し苦悩する只一人の人間として、自分を神に捧げたいという宗教的なモチーフが隠れている。敬虔な宗教者の家庭に育った者が背負う、ある種の宿命のような・・・・。(それは、ゴッホの人生にも深く覆いかぶさっていた宿命だった。)

 そのとき― つまり、世界の端の切り立った崖の上で、自らの存在の穢れと無垢と祝福を神に問いかけるとき― ヘッセにとって、その神なる存在とは、(少なくとも『デミアン』を書いているさなかでは、)マジョリティーが信じて疑わないような、慈悲に満ち、ひとを善導するオーセンティックな神ではなく、鬼面・邪悪と天使・善を併せ持った両義的存在者だった。

 まさに、ユング心理学のシャドーの存在を認めるプロセスと相通ずる心理的な志向性をそこに認めることができるし、同時に、ながくヨーロッパの思想に君臨した、『善悪の彼岸』の著者であり、神の死を宣言したニーチェと共振する世界観が、ヘッセに宿っていたのである。そういう観点から『デミアン』を読み返してみると、この文学作品が、小説として読まれるよりも、ヘッセの宗教的な信条告白として読まれるべきだと思えてくる。

 小説としては、少し、粗い筋の展開にもかかわらず、ひとを惹きつけてやまない『デミアン』の魅力は、善と悪を裁断することに疑いをもたない西洋的思考法の限界を指し示しているところにあるといえそうだ。

(つづく)

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時代の空気とシンクロするヘッセの小説『デミアン』

 なぜか子どもの頃、読んでいなかったヘッセの『デミアン』をやっと読み終えた。(多くの方々も同じだと思うが、小学校5,6年になると、背伸びをして、世界文学全集読破に手を染めるものである。そして、そういう全集に含まれている小説家の書いたものは、全部、読み上げたいという馬鹿馬鹿しい意欲が湧くものだ。こういう時期に多くの方が、ヘッセを読み続けたのではないだろうか。私もこの時期に、『車輪の下』『シッダールタ』『荒野の狼』『ガラス玉演戯』などを読んだ覚えがある。)

 高橋健二訳を読んでいるあいだに、臨川(りんせん)書店のヘッセ全集には、もっと読みやすい翻訳のデミアン(この全集の中では『デーミアン』)が収録されていることを知ったのだが、入手の手間隙を惜しんで、ハンディな新潮文庫版を気まぐれな風が頁をめくるごとき緩慢なスピードで読み続けた。

 はじめは一気呵成に読み終えてしまうはずだったのに、ずいぶん時間がかかってしまった。散漫な読み方が祟ったのか、後半は小説というよりも芝居のプロットを読まされているような、やや粗い叙述に感じられた。早い場面展開に戸惑うと同時に、いわゆる筋書きだけが綴られているように思えたのである。

 そのような、期待はずれの感じは残ったままであるが、予想外の収穫もあった。それは、この『デミアン』という小説が持つ現代性だ。この小説は、巻末の高橋の解説によると、1919年に出版されているのだが、まるで現代の日本の若者が書き上げた小説のように、得体の知れない外界に対する不安と精神的な足掻きにも似た神秘主義への傾倒ぶりが全編を貫いている。

 「私」=シンクレールが少年時代に受ける悪友からの恐喝は、恐喝される経緯も、そこから逃げ出すことができずに、ズルズルと悪友の計略に引き込まれ、親の金をくすねるに至る経緯も、現代の悪質な虐めそのものである。少年少女の自殺報道で知らされる陰湿なイジメと驚くほど似ている点で、きわめてリアリティーのある描写である。

 その虐めから辛くも逃れられたのは、ひと目で風変わりな印象を周囲に与える転校生、デミアンの助力による。助力とはいっても、(この小説の不思議な空気が持続する最大のトリックなのだが、)どのようにして、デミアンが、シンクレールを苛める悪辣な少年に対して、永久に手を出さないように仕向けたのか、つまり、どのようにして話をつけたのかは、小説の最後まで明かされることはない。

 このデミアンと、小説の終末近くに登場するデミアンの母、そして、間奏曲のようなかたちで登場するピストーリウスという青年が、すべて、この世の中の表面を覆っている索漠とした事実の背後に動く神秘的なパワーを信奉している、(現代日本の俗語的表現で言えば、)スピリチュアルな人々なのである。

・・・つづく・・・

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見る者を圧倒する風景―小松 均 <雪の最上川> その2

 展覧会場のなかで矩形に仕切られた、比較的広い空間がある。その四面の壁のうちの一つの壁全体を<雪の最上川>が占めている。横幅が4メートル57センチ、縦幅が92センチの横に長い巨大な作品である。森学芸員の解説文(図録収録)には、「風景の前にバラックのような小屋を建て、現場で描いた作品です。狭い小屋に大画面の全体を広げることはできず、紙を丸め、ときには折り曲げて描いたこともあったと言います。[中略]力強い線と、薄い地塗りのうえにのせられた白い胡粉によって、雄大な雪景色を表しています。」と書かれてある。ここからわかることは、風景以外の視覚に入る全ての夾雑なものを排除した空間のなかで、画家によって長期に観察された風景が、純度の高いかたちで結晶したということだ。

 それは、たしかに俯瞰された風景ではあるものの、描き手としての画家の視覚のなかで、矛盾無く統合された、ひとつのまとまりのある画像なのではなくて、・・・・・言い換えれば、そんな生易しい飼い殺された視覚像なのではなくて、・・・・・画家が一つの画像にまとめあげようと呻吟しても、常にそのまとまりのよいゲシュタルトから逃れ出てゆくヴァイタルな映像が、なんとか、ひとつの画面に居心地悪く繋留されているといったありさまなのである。逃げゆく映像をなんとか画面に繋ぎとめているのは、小松の俊敏な描写力である。それは、たしかに俯瞰し、俯瞰された風景なのではあるが、鑑賞者の視覚が焦点をあわせて視ている箇所の周辺では、常に風景は動き出し、その内在する凶暴な自然の力を誇示している。遠くの山々に目を遣っている間、手前の河の流れは勢いよく音をたてて、渦巻き、今度は手前の流れに目を遣れば、遠くの山では雪が降り始めている。静寂な雪の冬景色であるにもかかわらず、すべてが呼吸し、生々流転の動きの中に身を置いている。こうした不思議な錯覚をもたら作品には、おそらく表現上のユニークな試みが隠されている。

 その謎を解くひとつの鍵が、小松の独特な描写手法に求められるだろう。京都市左京区大原にある小松 均美術館のホームページには、この作家に関する貴重な情報がいくつも掲載されている。このなかで、小松 均の独特な描写の方法に関する記載があるので、紹介しておきたい。

 「小松均の写生法は、自ら「直写」と名づけたこれまた独自の写生方法が用いられ ました。その方法は、まず紙面と実景とを合わせ、首は動かさないまま、僅かに目玉を 実景から紙面に動かして、物と空間の境を切るように筆先を紙面に運び、墨線を引い ていくという方法でした。簡単にいえば、鉄砲打ちが小鳥に照準をあわせて引き金を引 くように、描く実景の的に狙いをさだめて、引き金を引くような感じで筆先を紙面に運ん だということです。 」 小松 均美術館のホームページはこちらです。

 まさに、俯瞰するのではなく、大自然と対峙して、その大地の呼吸、大気の輝きを活きたままに活写しようとする姿勢が反映した描き方である。

 こうした雄大な表現が実現するには、たいてい、見る者にリアリティーをもたらす視覚上の工夫がなされている。空気遠近法や色彩遠近法、さまざまな種類の透視法など遠近表現やスケール感にかかわる空間表現について、歴史に名を残す画家たちはかならずといってよいほど、独自の工夫を盛り込んでいる。

 こうした点から、小松の<雪の最上川>を眺めると、よく児童画でいわれる基底線を上部に向かって繰り返して表す遠近感の表現に近い構図が採られていることに気づかされる。横長の画面にいくつも認められる基底線のような横のライン・・・。

 こういうと、児童画を天才画家の表現に当て嵌めて論ずることに、違和感や異議を唱えるひともいるかもしれない。しかし、ひとが幼児期、外界をなんとか捉えて、自分の表現世界に取り込もうとするときにはじめて出遭った(というよりも編み出した)手法は、それだけ、原初的であり、認識と表現の間を結ぶ強力な回路をわたしたちの内部に築いているとみることもできるのではないか、と私は考える。そうした認識と表現にかかわる原初的な枠組みを用いて、猛々しい外界を、・・・・汲めども尽きない魅力を湛えた、「自然」という名の「他者」の相貌を・・・・なんとか自らの掌中に繋ぎとめる方法には、多くの者を無条件に引き入れる力が自ずと生まれ、宿るのではなかろうか。

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見る者を圧倒する風景―小松 均 <雪の最上川>(「日本画―和紙の魅力を探る」展から)

 前回、お勧めした「日本画―和紙の魅力を探る」展(徳島県立近代美術館:2007年11月13日~同年12月27日)に二回私は足を運んだ。12月23日と翌24日である。23日には出品作家のおひとりである中野嘉之氏と森 芳功学芸員が、24日には森学芸員が作品解説を行なっており、二回とも運良く、その機会に遭遇した。

  お二人の話を伺い、日本の絵画にとって支持体となる紙(あるいは布)と、描画材となる墨や絵の具の相性が大きな意味を持つことがわかった。もちろん、同じ紙、同じ墨を使っても、絵師・画家が異なれば、墨の色も変わってくるし、タッチや滲みも異なってくる。その振り幅の大きさ、変容の方向性にこそ、描く者が呻吟するオリジナルな追究の成果が表れるのではあるが、ある程度までは、そうした独自性を育む技能も含めて、創作者どうしは、それぞれが編み出した技を解読できる。というのも、紙や墨に対する基礎的な知識と研究力が多くの日本の絵師・画家に備わっているからである。

 そうしたプロフェッショナルな読み解きと技法の学びを相互に繰り返しながら、さらに進んだ表現へと突き進むために、画家は探究力に磨きをかけ、自らの手で技術革新を行なおうと試みる。この展覧会に即して言えば、紙や墨、顔料や筆への、あくことなき科学的アプローチである。

 紙の成分分析と各種素材の配合のバリエーションのなかから、自分の表現に合ったものを見つけ出していく過程は、まさに技術者がさまざまな素材の特性を見定めながら製品開発をするような実験精神に通ずるものがある。このような素材にこだわる芸術家の精神は、実は過去から現在まで揺ぎ無いものである。

( 画材メーカーの絵の具やキャンバスの製造と、画家の描くという仕事が分業化し始めたあたりから、西欧では無頼派的/デカダンな呪われた画家イメージが突出してきたものの、それとても、精緻な材料研究をベースにした画室の支配者=画家というイメージに対する異議申し立てというかたちで行なわれた、ある種の画材とのかかわりかたであるとみることもできよう。持ち運び可能なキャンバスや限られた色数で的確に下絵をつくる方法、そして乾きのはやい制作方法など、広い意味での画材探究を下地としている。

 ちょうど、据え置き型の大型カメラから、ハンディなフィルム装填型のカメラが普及して、写真家たちが化学的な知識から解放されて、露出やシャッタースピードや構図の科学に自らの関心をシフトさせたように、持ち運び可能なキャンバスとチューブ充填式絵の具は、光や色彩の科学や心理的な表現の科学へと画家たちの技術探究の方向性を変えたといえよう。

 しかし、そのように関心の赴く先が変わったとしても、支持体や描画材にたいする科学的な探究は絡みついている。たとえば、伝統的な絵画技法では考えにくかった新たな素材の混合技法の誕生などがこれに該当するだろう。このように考えると、単に身体的な描法や画題にかかわる思想や趣味には還元できない、画材にかかわる技術・技法(=art)へのアーティストのこだわりは、歴史・地域を越えて、普遍的なものであり、まさに本質的である。)

 さて、タイトルに掲げた話題が後回しになったが、ここで小松 均(KOMATSU Hitoshi 1902-89)の話題に移ろう。12月23日に解説をした中野嘉之氏は、制作者の立場から、展示されているそれぞれの作品のどのような点に心惹かれるか、実に正直に本音で語ってくれた。

 本音で語るとは、すべてを思いのままに語るということではない。当日のナレーションを文章に掘り起せば、その作品に対する賞賛としか読み取れない文面になるであろう解説も、実は身振りや声の抑揚などから、ある種の距離や違和感を感じているとわかる場合もある。いくつかの作品については、中野氏の解説はその種の含みをもっているように、私には感じられた。

 しかし、小松 均の作品の前で、(冗談めいた表現ではあるが、)「この作品を見るだけでも、入館料は惜しくないのでは・・・」と述べた彼の表情は真顔であり、その言葉は偽りの無い賛美であった。そこから、私には、小松 均は彼が私淑する画家の一人ではないかと思われた。風景のスケッチに同行したときの逸話を語るときも、懐かしげであり、二人の関係が良好だったことを物語っていた。

 また、中野嘉之氏の大作<蕭蕭>(しょうしょう)は、世界を覆い尽くすごとき圧倒的なスケール感を表現した意欲作だが、このような広大な空間表現を追究する点にも、中野氏の作品の中に小松との共通点を見て取ることができ、良い意味での影響の痕跡を指摘できるのではないかと思った。

 このように、中野嘉之氏のギャラリートークを媒介に、小松 均の画業がいかに優れたものであったかを確認できたわけだが、私自身、二回も「日本画―和紙の魅力を探る」展に足を運んだ最大の理由もまた、この小松 均の<雪の最上川>(1979年)の尽きない魅力にあった。もう一度、じっくりと見てみたいという強い願望に突き動かされて、ごろ寝をしていたい休日に徳島県立近代美術館に赴いたのである。一回の鑑賞だけでは、物足りなかったのだ。もう少し、直截に言うならば、この作品の圧倒的な迫力、世界を丸ごと切り取ろうという独特で不思議な視覚、すべてが私にとっては衝撃だったのである。 

 ( ほかにも数点、気にかかった作品がある。覚え書きとして挙げておくと、それらは、浦上玉堂<仙渓訪友図>、菱田春草の小品<牡丹図>、竹内栖鳳<水郷>、高山辰雄<牡丹 洛陽の朝>、竹内浩一<夜さめ>、中野嘉之<蕭蕭>および<うず潮>などである。もちろん、これらのほかにも魅力的な作品はたくさんあったが・・・) 

(つづく)

 

 

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美術展情報:圧巻―日本画の魅力を堪能できる展覧会(12月27日まで)

 いま、徳島県立近代美術館で、過去から現在まで、紙を支持体としてできあがった絵画作品の展覧会が「日本画―和紙の魅力を探る」展と題して、開催されている。ここに集められた作品は、いずれも素晴らしいできばえの秀作であり、中世、近世、近代のいずれの時代も、そして、現代も、巨匠の作品ばかりである。通覧すると、その質の高さと迫力に圧倒される。よくぞ、ここまで、優れた作品を集めたものだと、企画・展示を担った森 芳功学芸員の作品選択眼と力量(というよりも、借り受けの交渉能力や図録をほぼ独力で仕上げる力わざ)に驚かされた。彼の努力は、開催している美術館の評価、すなわち、「単独の主催でこんな素晴らしい企画展がよくできたものだ」という評価に繋がってくるだろう。

 その素晴らしい展覧会も、残すところ数日である。日本画を愛好するひと、そして、日本画の制作に携るひと、さらには、日本美術史の研究に携る学生/研究者の方々は、陸路、空路、海路を利用しても、徳島まで行く価値がありそうだ。参考のために、出品作品を下記に記しておこう。

「神護寺経」(第13巻) 作者不詳 12世紀、「高野大師行状図画」(第七巻) 作者不詳 1319年頃、「源平合戦図屏風」 作者不詳 17世紀、「山水図」 秋月等観 15-16世紀、「山水図」 如水宗淵 15-16世紀、「韃靼人狩猟図屏風」 狩野興以 17世紀、「松鶴図」 狩野永岳 1847年、「山家図」 与謝蕪村 18世紀、「仙渓訪友図」 浦上玉堂 19世紀、「秋江雨晴図」 浦上玉堂 19世紀、「西本願寺本三十六人歌集模作 貫之集下」 田中親美 1929-32年、「西本願寺本三十六人歌集模作 伊勢集」 田中親美 1929-32年、「韓信堪忍図」塩川文麟 1871年、「伏龍羅漢図」 狩野芳崖 1885年、「牡丹図」菱田春草 1904年頃、「鷺娘とカッパ」小川芋銭 昭和初期、「踏雪沽酒図」富岡鉄斎 1905-14年頃、「草聖図」富岡鉄斎 1918年、「佛國ビルフランス小港」広島晃甫 1930年代、「春秋図」横山大観 1909年、「鵜飼六題(深潭)」 近藤浩一路 1923年、「漁村夕陽」小杉放庵(未醒)制昨年不詳、「竹雨」小杉放庵(未醒) 1933年、「緑蔭対局」 小杉放庵(未醒) 1952年頃、「一茶」小杉放庵(未醒)制昨年不詳、「桔梗」速水御舟 1934年、「秋興」富取風堂 1942年、「おぼこ」前田青邨 1944年、「豊太公」前田青邨 1947年頃、「淀の川瀬」冨田溪仙 1927年、「月ヶ瀬」冨田溪仙 1927年、「石山秋月」冨田溪仙 1927年、「御室の雪」冨田溪仙 1927年、「水郷」竹内栖鳳 1933年、「驟雨一過」竹内栖鳳 1935年、「田牛図」村上華岳 大正初期、「山(かい)早春之図」 村上華岳 1934年、「寒巖古松図」村上華岳 1935年、「O氏像」 堅山南風 1954年、「飛鳥をとめ」安田靫彦 1958年、「サンフランチェスカ寺」吉田善彦 1973年、「室生の秋」 吉田善彦 1975年頃、「夕雲」小野竹喬 1965年、「雪の最上川」小松均 1979年、「黄山霖雨」加山又造 1982年、「黄山湧雲」加山又造 1982年、「おぼろ」加山又造 1986年、「牡丹 洛陽の朝」高山辰雄 2004年、「白暁妙義」下保昭 2003年、「寒霞幽渓」下保昭 2005年、「彩雲暁粧」下保昭 2006年、「萌春」石本正 1983年、「風の囁き」宮廻正明 1992年、「天写田」宮廻正明 1993年、「協奏曲」宮廻正明 1995年、「しるべ」竹内浩一 1996年、「夜さめ」竹内浩一 2007年、「吉野川・春」竹内浩一 2007年、「蕭蕭」中野嘉之 2004年、「蕭蕭(一)」中野嘉之 2006年、「うず潮」中野嘉之 2007年、「銀嶺」大野俊明 2004年、「阿波木偶I 娘」大野俊明 2007年、「阿波木偶II 花魁」大野俊明 2007年、「阿波木偶III 武者」大野俊明 2007年、「彼の丘」斉藤典彦 2006年、「よさくら」斉藤典彦 2006年

(これらの出品作品情報は、徳島県立近代美術館のサイト/ホームページにある展覧会情報をもとにしています。)

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読書家の部屋を垣間見て(日々の思い)

 ある仕事仲間の事務所=研究室にお邪魔した。そこには、個人が持つ書籍の数としては、ほぼ限界と言えるほど、大量の図書が収蔵されていた。何本の本棚が置かれているのだろうか、勧められた椅子に腰掛けた私を取り囲む何千冊、何万冊という本の背表紙が、広漠とした海原にさざめく数え切れぬ白波のように、輝き、動いているように感じられ、眩暈の感覚を覚えた。

 しかも、盗み見れば、あらゆるジャンルの本がある。哲学、思想の本が多い。とくにフランス現代思想の本が多いようだ。心理学、教育学の本もある。美術、デザイン関連の洋書も多い。こういうと、好事家が暇に任せて収集した本が、雑然と並べられているように感じられるかもしれないが、彼の場合には、その時々の執筆に関連して自ずと集まってきた本だそうである。背表紙を横にして雑然と積み上げてしまう私の悪癖と異なり、この部屋の住人は几帳面である。その膨大な図書はジャンルごとによく整理されており、書架ごとにラベルが貼られている。

 私は、「まるでハイソな古本屋みたいだね」と開口一番、正直な印象を述べたが、この部屋に入ったとたん、一瞬のうちに、気圧され、打ちのめされた敗北感が、わずかに棘のある表現を私に選ばせたのかもしれない。(無意識とは、現在の冷静な意識化作用によってもたらされる本音の発見である。大雑把に言えば、そこにはある事態に後から加えられた思念も反映されてしまう。いやいや、そんなに大袈裟なことではない。いま、文章を書きながら、そのときの気持ちを自己分析してみれば・・・ということにすぎない。)

 彼はいま国際的な規模のシンポジウムを企画していて、その算段を練っている最中である。部屋の片隅に置かれたファクシミリには、そのために繋がり始めた動線が推測できる宛名の用紙が残っていた。国際的なネットワークのなかで、博覧強記のその頭脳が世界的に活躍する日も近いだろう。

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フィラデルフィア美術館展(京都市美)の鑑賞

 家人の粋な計らいで、京都市美術館で開催中の「フィラデルフィア美術館展」を見る機会を得た。入場券と昼食がセットになったバスツアーのチケットを、京都好きで美術好きの子供の分と私の分と、併せて二枚プレゼントされたのだ。そういうことがなければ、「印象派と20世紀の美術」という副題のついた、あまりに、あまりにポピュラーな展示内容の、この展覧会をおそらくあえて見逃していたかもしれない。ポピュラーゆえに「あえて見逃す」というこの馬鹿馬鹿しい姿勢のために、どれほど優れた作品を見逃したことか・・・自責の念といえば大げさだが過去を省みて歯噛みする事が多い。

 そのような志向性ゆえ、どちらかといえば、京都市美の向かいに位置する京都国立近美に足が向く。現代美術を扱うことが多い美術館だからだ。2001年の「ミニマル・アートとその展開展」や2004年の「痕跡」展など、京都国立近美で見た展示には印象深いものが多い。しかし、よく考えてみれば、2002年のメトロポリタン美術館展も、2005年のフィレンツェ展やルーブル美術館展も、京都市美で見たような気もする。朧げだが・・・。あるいはメトロポリタンは渋谷のBunkamuraだったか・・・・・・・。

  2007年8月26日(日曜日)の京都は猛暑だった。遠景の平安神宮が路面から立ち昇る熱気でゆらゆらと揺れて見えるようだった。京都の街の随所にみられる柳も強い日差しに炙られて、立ち枯れするのではないかと思われるほど、乾いて萎れていた。

 午後一時から三時にかけて会場は比較的空いていた。どの絵にも七、八名の人だかりといったところ。会場を見回して、特に込み合っている作品は、コローの人物画「泉のそばのジプシー娘」、ドガの「室内」、ピサロの「ラクロワ島、ルーアン(霧の印象)」、ルノアールの「ルグラン嬢の肖像」、ゴッホの「オーギュスティーヌ・ルーラン夫人と乳児マルセルの肖像」、クレーの「魚の魔術」、ミロの「月に吠える犬」、ステットハイマーの「ベンデルの春のセール」、オキーフの「ピンクの地の上の2本のカラ・リリー」である。ある時間帯に集った入館者の嗜好を表しているにすぎないと思いつつ、この「評価」には、意外だという印象と共に、なるほど、現代のポピュラリティーの反映という観点からすると、こうなるのかという奇妙に納得させられるところもあった。

 実は、これらの作品以上に、もっと人だかりができても不思議ではない作品が幾つか展示されていたのである。逆に言えば、この展覧会の目玉と言っても過言ではない幾つかの作品の前が、拍子抜けな程、空いていた。おかげで、ゆっくりと立ち止まって見ることはできたのだが、アレッという感じがしないでもなかった。

 そう思えたのは、次の作品群である。モネの風景画五点、セザンヌの「セザンヌ夫人の肖像」と風景画ニ点、アンリ・ルソーの「陽気な道化たち」、ピカソの記念碑的大作である「三人の音楽師」、マティスの三点(特に「青いドレスの女」)、デュシャンの油彩作品である「画家の父の肖像」と同じく油彩の「チェス・プレイヤーの肖像」、モディリアーニの「ポーランドの女の肖像」、デ・キリコの大作であり代表作の一つである油彩作品「占い師の報酬」、マグリットの「六大元素」、ワイエスの初期秀作のテンペラ画「競売」。

 恣意的に挙げたのではない。マティスの三点は門外不出に近かった作品であり、特に「青いドレスの女」は、図録の表紙を飾っていることからみても本展覧会の白眉のはずである。アンリ・ルソーの「陽気な道化たち」も、雑誌「美連協ニュース」の最新号[8月号・通算95号]の表紙を飾っている。フィラデルフィア美術館展が、この雑誌の発行母体である美術館連絡協議会の「創立25周年記念」展と位置づけられていることを考慮すると、展覧会を象徴する一枚としてルソーのこの作品は、熟慮の結果、展覧会の顔として選ばれた象徴的作品とみることができる。ピカソの「三人の音楽師」も後期キュビズムの集大成とも言える傑作であり、美術の教科書に掲げられることも多い著名な作品だ。デュシャンの油彩作品も(大阪の国立国際美術館の会館記念展(2004年)としてデュシャン展が記憶に新しいとはいえ、)見る機会が少なく、貴重である。掲げたその他の作品、たとえば、モディリアーニの「ポーランドの女の肖像」も質の高さという意味で言えば、ダントツの素晴らしさである。

  こうしたことを考えてみると、ポピュラリティーの獲得というものは、一筋縄ではいかないということがわかる。もちろん、モダンマスターズのなかでも人気度でいえばトップ サーティーなりフォーティーに含まれるアーティストたちが繰り広げる人気投票。言い換えれば、ファーイーストの美術愛好家を仲間の誰が惹き付けるのかな、といった神々の遊びみたいなものである。しかも、それはたかだか日曜日の約二時間の定点観測の結果なのである。

 したがって、まあ、大きな意味があるというほどのことでもない。そのように、私自身、割り切ろうとおもいながらも、「何故なのだろうか」と、妙に、印象に残る現象であった。(この、何故 という疑問に合理的な説明を与えたい気もする。たとえば、人気のあったドガの「室内」は現代のシネマサイズの縦横比に近い形であるとか、ミロの「月に吠える犬」は、現代の造形作家の登竜門のひとつであるNHKデジスタに参加しても、容易に勝ち抜ける形象の魅力を持っている(あたりまえか:笑)とか・・・、現代の鑑賞者の目というろ過紙を通して、今に届いてくる魅力の在処を突き止めてみたい気がする。)

 図録に掲載されていた論考はいずれも興味深いものだった。この話は別の機会に行いたいと思う。

 蛇足:祇園散策という自由行動時間一時間のあいだにタクシーに乗り、晴明神社に拝観しトンボ帰りで、京阪四条駅そばの大きな焼肉店前に停まっている観光バスに戻った。以前は、京都方面に出れば、必ず宇治の平等院に足を運んでいたが、ここのところ、晴明神社に寄ることが多くなった。内部にペンタゴンを抱えたあの不思議な桔梗紋に何故か惹かれてしまうのだ。

 

 

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カメラ・オブスキュラの認識論(近代教育フォーラム15号)

 前回触れたシンポジウムのほかにも、この学会誌にはアート・エデュケーションの観点から読んで、興味をそそられるテーマのシンポジウムが掲載されている。<啓蒙「と」教育―その絡みと捻れを考える>と銘打たれたシンポジウムの発表者である弘田陽介(HIROTA Yosuke)は、「啓蒙の眼球譚 ペスタロッチとヘルバルトの視る身体」と題する興味深い考察を寄稿している。これは、J.クレーリーによる『観察者の系譜』に基づくとともに、この著作から刺激を受けて展開された思考を纏めた文章のようだ。

 まず、啓蒙という言葉、すなわちEnlightenmentは、ただ暗鬱で蒙昧な前近代に合理的な見通しをつけたという運動を意味しているだけでなく、「その光を見つめる人間の眼差しへの探求を含み込んでいた」と、ここでのテーマを明らかにする。文字通りの「眼差し」について考えることが啓蒙思想の重要課題だと言い換えてもよいだろう。

 デカルトはカメラ・オブスキュラと眼球のシステムを図示した図版を用いて、それぞれのシステムの違いから人間の認識を論じている。そのことが最初に紹介されている。デカルトは人間の視覚が不完全なものであることを確認することによって、人間の認識に対する根底的な問いへと思索を飛躍させる手がかりを掴んだのである。カメラ・オブスキュラと眼球のシステムを比較したデカルトの論文は1637年のものである。

 それから160年以上も経った1801年の『ゲルトルートはいかにしてその子を教うるか』で、ペスタロッチは、概念の明晰さの水準、つまり概念の明晰さと曖昧さは、遠近によって左右されると述べる。なぜならば、人間は感覚的存在であり、人間の内部に位置するはずの表象は、外界を五官という身体的装置を媒介にした外界情報の焦点化の帰結によって成り立っているからである。ここでは、「人間の外界にある対象が五官というレンズを通して、人間の内部にある中心点=焦点において表象という像を結ぶ」(弘田)という基本的なシェマで、外界・身体・表象の関係性が語られていることが炙り出されている。たしかに、レンズの比喩は、的確である。

 次に、『ゲルトルートはいかにしてその子を教うるか』と同時期のヘルバルトの著作『直観のABCの概念』(1802年)と、同じくヘルバルトの『一般教育学』(1802年)という著作から次の各一箇所を挙げて、「人間の眼差しへの探求」と認識論の関係が綴られている。引用文を孫引きすると、次の通りだ。

「見ることSehenは一つの技術Kunstであり、生徒は他のすべての技術の場合と同様に、この技術を取得する場合においても、ある一定の訓練を積まねばならない。それが直観のABCの最初の前提である。」

「教育を行う場合に、また教育を求める場合に、その人が何を欲するかは、その人が関わっている一定の視野Gesichtskreisによって決まっている。教育しているほとんどの者が、この仕事のためにあらかじめ自己自身の視野なるものを作ることを、まったく怠っている。」

 ペスタロッチとヘルバルトの連続性を指摘しつつ、その異同について弘田は、「直観ないしは見る技術の陶冶、訓練という点で」議論の連続性を読み取れるが、「ヘルバルトにとって、ペスタロッチの言う「近い―遠い」という距離関係は同意できない」ものだったと言う。感覚的には身体の近くにあるものが捉えやすいということがあっても、「悟性にとっては自ずから直観できるとか概念的に把握できるというようなものではない」(ヘルバルト『一般教育学』)

 このヘルバルトによる転換で、レンズの精度を上げることで認識深化を目指すという発想法そのものが否定され、科学としての見る技術、すなわち身近な現象をより大きな全体像の一部として見做す認識深化としての「科学」が登場したのだ。具体的には、事象と事象を結ぶ距離関係が記された「地図」を制作する認識者としての人間像追究というテーマが、ヘルバルトの主要な関心事となったのである。ヘルバルトといえば、よく整理された完成された概念マップの重要性を唱えた人間として銘記している人も多いだろうが、複雑で曖昧な地図を整理された地図に変容させる過程、すなわち表象の訓練こそが、認識深化の課題であると捉えた点にヘルバルトのほんとうの存在価値がある。

 カメラ・オブスキュラの比喩では捉えられない別の参照枠がこうしたヘルバルトの認識論を観る上で必要となる。それは、おそらく、ゲーテの色彩論であろう。なぜならば、「もはや、ここでは[ヘルバルトの思考では―引用者補注]あの暗室における光の秩序、あのカメラ・オブスキュラの秩序は失われている。先のクレーリーも引用しているが、ゲーテの色彩論こそが、それまでの光学の秩序に決定的に異議を唱えたものである」(弘田)からだ。ゲーテの色彩論と言っても、その成果は多岐にわたるが、ここで弘田が思い描いているのは、光の残像のなかから浮かび上がる「生理的色彩」を発見したゲーテである。

 哲学、それも教育哲学をカメラ・オブスキュラや、目という器官の解剖学的システム解明の科学と関連付けて、読み解こうとする試みは、たいへん刺激的である。というのも、芸術理論や美術批評の分野では、認識に関わる思想史的な文脈から同時代の美術作品の形態を記述しようとする試みはすでに馴染みのあるスタイルなのだが、それだけに、これとベクトルが交差するかのごとき、視覚や感覚論の観点から思想史を記述しようとする試みは新鮮にみえるのだ。

 たしかに、フーコーの『言葉と物』以降、エピステーメーの根幹に、<見ることの制度化>とその解体や変容が深く関わることを、絵画作品や監視システムを事例的に取り上げて説得力を獲得するという哲学の流儀は定着しているのだろう。しかし、そのことを前提としても、端的に「カメラ・オブスキュラ」を思想の枠組み形成の具体的な<装置>として取り上げ、啓蒙思想を「人間の眼差しへの探求」としてとらえた「啓蒙の眼球譚 ペスタロッチとヘルバルトの視る身体」は刺激的である。

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近代教育フォーラムのシンポジウム

 「近代教育フォーラム」第15号には、興味深い幾つかのテーマに基づくシンポジウムのまとめが載っていた。「国家・グローバリゼーション・教育」と題されたシンポジウムとこれに関わる報告論文および纏めは、現在の日本の教育政策を読み解く上で重要な論点を整理してくれているので、興味深い。しかし、論者たちの参照枠となっているネグリとハートの『<帝国>』を読んでいないゆえに、彼らの世界観も、「マルチチュード」なる概念も共に不案内であり、たんなる紹介記事としてさえ紹介者自身が隔靴掻痒に過ぎるという自覚があるので、このことに対する紹介とコメントは、後日に―、ということにしたい。それでも、若干、「頭出し」的に、この議論について言えば、件のシンポジウムおよび報告論文を総評した片山勝茂(KATAYAMA Katsushige)が、前出のネグリとハートの一連の論考とトゥーリー(Tooley,J.)の著書および論文との比較考量のなかで、市場メカニズムの教育への導入と、国家による教育コントロールの増大を両立させたサッチャー政権が推し進めた教育改革について注意を喚起している点だ。というのも、このような多義的性格をもった政策を現実に敢行してしまった事実こそが、「市場か、国家か」という二律背反的思考の反映とも思える、「教育の私事化か、大きな政府か」という二項対立図式が持つ粗雑さを浮き彫りにしているからだ。

 ここからは、私的な感想だが、イギリスにおける政策的な世論コントロールと行政的な立案・実施の技術は非常に巧緻化しているのではなかろうか。すでにイギリスで、実験され、豊富なデータがある教育行政(=義務教育課程だけではなく高等教育まで)・文化および芸術政策(=美術館・博物館等)のモデルが、これから、日本においても確実に踏襲されるだろう。(おそらく、政策展開のキーワードは、「公共的評価」であろう。)そのとき、いかなる理論的な枠組みによって、次々と繰り出される政策を分析・整理・批判すれば、学ぶ者および教育機関が、現代社会への過剰適応から身を守り、社会と個の間にダイナミックな関係性を構築する知恵を得られるのか。このような関心から、もう一度「近代教育フォーラム」第15号の「国家・グローバリゼーション・教育」を読み直す機会を持ちたいと思う。

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やなぎみわ・永守基樹・森公一による鼎談について:その2-3(後半部紹介)

 今回は、物語をめぐる話題の箇所から、鼎談の紹介を始める。永守は作家側と見る側を結ぶコミュニケーションに必要な共通のコードが見失われたと、現代を描写する。ルカーチや吉本隆明の名前が挙がるところに、このひとの教養の深さが見て取れる。そういう現代だからこそ、身体感覚の次元で他者と繋がる試みが多くなる。そういう方法が現代のアートの潮流だと永守は整理したうえで、やなぎの作品からは、物語でコミュニケートする方法、そのような方法による社会的な繋がりを志向する作者の意志を読み取れるが、如何か?と、やなぎに問いかける。しかも、そこには村上春樹が意識しているようにユング的なイメージも浮上している。これに対する答えが、興味深いのでそのまま掲載しよう。

やなぎ―村上春樹の作品の中で「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」は、ユング的な世界と現実世界のパラレルワールドになっていて、非常に抽象的な世界が並びながら融合していくというのは面白かった。童話も、もともと語りの段階、民話の段階では非常に抽象的なんですね。なんのモラルもないし起承転結もない。ハナシがない物語というのは、読んでいて空恐ろしくなる。物語が抽象から具象への[ママ]移行するのはともかく、「往復」というのは大胆な冒険ですよね。

 この話題の流れの中で、永守が「ユング的な深層的イメージっていうようなものを、やなぎさんは意識して使われているのか? 否、そうじゃなくて、方法はまた別なのか?」と直裁に訊ねている。答えは「 「寓話シリーズ」はちょっと引きこもる作品ですけども。やっぱり人に見せるということはコミュニケーションを望んでいるっていうことでもあるので、それはなにか共有できるように、成るべく分かりやすい物語を使ったりとか、分かりやすいシンボルを使ったりとか。それはありますね。」と、自然体のもの。

 次に、やはり永守がシュルレアリスムへと話題を拡げ、やなぎの制作の見えない部分に迫ろうと試みている。やなぎがシュルレアリスムとの出会いがベルギー象徴派展に出品されていたシュル作品群だということを明かした後、森 公一が再び、<「寓話」シリーズや「グランドマザー」のシリーズにおける物語性は、見る者をその深層に誘う装置として機能しているのではないか>という趣旨の問いかけをやなぎに向けて行う。これにたいする答えは、いささか意外なもので、 「エレベータガール」は、けっこうそういうことを意識してやっていましたね。」とやなぎは言う。

やなぎ―現実にある風景を小さなカメラで写真にとって、それをストックしておいて、それをだんだん組み立てるようなこともやっていましたし。一次記憶ではなく、二次記憶で記憶が進化していって、そこで変なコラージュが出来上がって、またもう一回夢という形で現れたりしますね。そういうのが「エレベータガール」の時はなにか使えることはないかなと思っていましたけども。

 このあたりは、シリーズごとにテーマとスタイルの変貌を遂げるやなぎの創作の振幅を垣間見るようで興味深い。

 鼎談は、この、ちょうど全体の2/3を越えたあたりから佳境に入り、同時代を読み解くやなぎの批評的な眼光が鋭さを増す。すなわち、「小さな物語」を編み続ける現代の表現者の矮小さを取り上げて批判するやなぎの次の言葉は、時代に対する痛烈な批判であると同時に、現代日本というプチプラネットの磁場に抗いがたく引き込まれそうになる心理をも語っていて、強靭さと繊細さをともに持ち合わせる彼女の個性をよく表している。 

 「これは絶対にネットの影響も強いと思いますが、終わらせることがないまま、生み出し続ける。あと、匿名性。自分の名前を名乗らない。私自身は作品を完成させないで、自分の手から離さないっていうのはものすごく違和感があるんですよ。今の若い人たちはそれにも違和感がないのかもしれませんが・・・。いつまでも全能感を手放せなくなってしまうのではないですか。」

「私自身は好きなものはいつか別れることを考えたいですね。だから「寓話」シリーズも自分では今の時点では非常に好きな作品ですが、今あと2点作ったらそこで止めるということになっています。」

 このあとも、鼎談はいくつかの話題をめぐりながら続いていく。その過程で、やなぎは包み隠さず、表現者としての視点から、同時代の表現を批評し、自作を語り続けている。散会の挨拶まで、もう少し紹介を続けたいところだが、すでに四回の連続となっているので、ここまでで、いったん、やなぎみわ、永守基樹、森公一の鼎談紹介を終えようと思う。能弁でありながら、饒舌に陥らず、鋭角の言葉を放つ、やなぎみわという現代のアーティストの魅力を十分に引き出せた鼎談の一端が伝われば幸いだ。なお、8ポ前後の小さな文字で19頁にわたる長大な鼎談の間には、やなぎの10作品の図版が掲載されている。

Miwa YANAGI è un’artista importante in giappone.

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やなぎみわ・永守基樹・森公一による鼎談について:その2-2(後半部紹介)

 後半、この鼎談はやなぎみわの作品制作過程に話が及ぶ。CGとリアリティの関係について問われたやなぎは、「どんな制作でもリアリティというのは完成しないと予測できないところがあります。やってみて、自分のリアリティを掴めたと思えればそれでOKですから、新しい技法でも古い技術でもうまく見つかれば幸運ですね。」と述べている。

 また、エレベータガールのシリーズが巨大化していった理由について、「ルネッサンス時代の壁の騙し絵のように、空間の中に人が錯覚で入れるような事を考えてましたね。」と述べている。このあたりの言葉には、やなぎみわの気取らない性格が表れていて、好感が持てる。同時に、一見、単純なこの言葉、すなわちルネッサンスの騙し絵を意識していたという発言は作品の核に触れているといえよう。作品が、美術館展示室の壁面という現実と拮抗し、凌駕し、もうひとつのリアルな空間の存在感を見る者に感じさせるためには、作品に強度を持たせなくてはならないだろう。彼女は、おそらく、それだけの強度を作品に付与する方法を考えているのだ。

 永守基樹は、「やなぎさんは身体がメディアの中に埋没することを避けたい、そこから半歩引きたい、という態度ですね。それは重要なことだと思います。」と、フィルムからCGまでを縦横に駆使するメディアアーティストとしてのメディアと身体との関係性について、話の水を向ける。これに対して、やなぎは、「ずれがあって、そこにざらつき感が生まれてきますよね。ピタッと合った瞬間の至福感ってあると思うんですね。ただその後、固定化してはいけないと思ってしまう。」と表現者だけが味わい受け止める「至福」と「冷却」の波を吐露している。まさにフィルターやピントという装置を使いこなし、CGによって見る者の感覚までをも意識しながら、コンピュータで画像をマニピュレートしている経験が生き生きと伝わってくる言葉だ。世界を認識する装置としてのテクノロジーと、やはり同じく、世界を認識する装置としての身体をともにマニピュレートしているうちに訪れる至福の瞬間―それなくして、やなぎの作品のリアリティは存在しない。つまり、彼女は現代のテクノロジーを介在させた認識がもたらす、素朴な身体的認識とはズレていく表現モードをテーマ化しようとしているわけでも、そのズレに作品を浸し、CGというもう一つの仮象世界に遊ぼうとしているわけでもない。そうした、メディアそのものを問い続ける自閉的な回路から逸脱し、跳躍することによって訪れる、リアリティと触れ合う一瞬を彼女は逃さない。それが、やなぎが(良い意味での)ポピュラリティーを獲得している所以である。

 森公一は、「メディアが透明になってしまうと、[作品が:引用者] 薄くなってしまうんですね。全部フィクションのようで。その一歩手前の所で、折り合いをつけるというか。」とメディアの透明/不透明を問題にする。これにたいして、やなぎは、「常に異化効果を繰り返すというか。」と応じ、自らの表現のベクトルを正確に言葉に留めている。やなぎにとって、メディアの透明と不透明の厚みを自由に行き来する過程こそが重要なのであり、その過程を繰り返すことによって、いや増しに、作品は強度を獲得する。(このあたりの流れでは、鼎談者の永守や森が、アートのありかた・質を分析的に整理しようと試みているが、やなぎは自らの表現プロセスを動的に捉えようと努めている。)

 この後、三人の話は、「物語」(寓話シリーズ)について、教養主義とファインアートの崩壊、文学的想像力との親和性について、文部省の「新しい学力観」への視座、美術史をどう捉えるか、と続く。終わりに近い部分で、再び、やなぎみわの作品に密着した流れとなり、鼎談の濃度が増してゆくので、次回はそのあたりを紹介しよう。もちろん、端折った部分は、永守基樹の思想を読み取る上で重要な箇所を含んでいるので、これについては見出しを改めて別の機会に紹介したいと思う。

(鼎談紹介:つづく)

Miwa YANAGI è un’artista importante in giappone.

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やなぎみわ・永守基樹・森公一による鼎談について:その2-1(後半部紹介)

 前回と今回で、一つの長い鼎談を勝手な箇所で前半と後半に分けて紹介する。その鼎談は、現代の日本を代表するアーティストの やなぎみわ(YANAGI Miwa)と美術教育界を代表する俊英:永守基樹(NAGAMORI Motoki)、そして、メディアアートの研究者であり制作もてがける森 公一(MORI Koichi)によって行なわれた。その記録は永守が企画から編集までを執り行うMatrixという研究誌に掲載されている。

 任意の箇所で区切らせていただいた後半は、素敵な小見出しが付されたところからだ。すなわち、<「暗箱」をめぐって―メディア、パノラマ、パサージュ>

 ここで、永守はカメラというメディアを「箱」と呼ぶことによって、やなぎによって、あらかじめ念入りに造られた室内の造形物が写真に撮られるというプロセスを、部屋という箱をカメラという箱に移動するプロセスとみなして、「写真を使おうと思われた最初の時点から、ショーウィンドウの中の箱を、「暗箱に写し取る」という明解なコンセプトがありましたか?」とやなぎに尋ねている。

 この問いに導かれるように、やなぎは最新の作品である「寓話シリーズ」について語り始める。自分の部屋を暗箱に「写す」=「移す」という意識があり、自分は箱から箱へのリレーションの感覚が好きだったという貴重な告白をしている。この巧みな比喩のなかに、やなぎのアートに共通する性格の一端を看て取ることができるかもしれない。

 永守は我が意を得たりとばかりに、「それって、「メディア感覚」とでも言うことですよね。もう一つのパノラマということも。エレベータガールシリーズは、パノラマ的構成になったものが多いですよね。且つ、内と外の空間が非常にあいまいな状態になっている。」と、やなぎのメディアへの覚醒のプロセスを印象付けようと試みると同時に、やなぎの作品への批評の火蓋を切っている。これに対して、やなぎは、肯定しつつ「そうですね、パサージュ的な。」と言い換えている。彼女は、「案内嬢」のシリーズでは、パノラマでありパサージュであるという二重性/両義性を狙ったことを吐露したのだろうか。

 やなぎの作品変遷に詳しい森が、<エレベータガールシリーズは、パノラマというよりも箱の中>だと指摘し、これを受けたやなぎ自身が<当初はたしかに箱の中だったが、直ぐにパノラマでワイドな作品になった>という趣旨の注釈を加えている。森が整理し、やなぎが注釈を加えた「箱の中」という表現が果たしてパノラマと対置されるべき作品の性格を的確に表しているのかわからないが、―つまり、パノラマという形態もまたカメラという暗箱を強烈に意識させるものではないかと思うのだが、―この話題は、やなぎの表現活動を支えるバックボーンとも言えそうな次の言葉を引き出した点で、たいへん大きな意味がある。

「前世紀的な視覚装置に興味があって、次々作ってみたかったんですね。パノラマや、覗きからくり箱や、デパートや美術館、芝居がかった博覧、閲覧型消費空間に惹かれて色々調べました。今も好きですよ。もちろん。」

(鼎談の後半部紹介 つづく)

Miwa YANAGI è un’artista importante in giappone.

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やなぎみわ・永守基樹・森公一による鼎談について:その1(前半部紹介)

 7月23日の本ブログ記事で紹介した永守基樹(NAGAMORI Motoki)氏が主宰し、企画・編集も同氏が手がける研究誌「Matrix 基礎造形教育学研究」第5号に、やなぎみわ(YANAGI Miwa)氏の作品や制作をめぐり、写真論から同時代美術、さらには現代の教育のあり方にまで話題が及ぶ長時間の鼎談が掲載されている。今日は、そのご紹介と若干のコメント。[以下、初出の方を除き、敬称略。]

 美術愛好者のあいだで、やなぎみわの写真作品[=もちろん、素朴な写真表現ではなく、写真という媒体を用いたアート]を見たことがないというひとは少ないかもしれない。いや、美術愛好者に限定せずとも、少しでも現代のビジュアルな表現にたいしてアンテナを張っている者ならば、一度は、彼女の作品を見たことがあるはずだ。それほど、あの「案内嬢」のシリーズはポピュラリティーを獲得した。

 この鼎談の趣旨は、やなぎみわという優れた表現者の歩みを作者本人の言葉によって振り返り、現代のアートの表現のありようとその学びの方法を探ろうとするところにあるのだろう。それは、この鼎談の最初のパートに「やなぎ作品と美術の学び」とあることからも伺える。この最初のパートで永守は、自らの表現のコンセプトや方法を明晰な言葉で語ることができるアーティストとして、みなぎを紹介する。

 続く流れのなかで、永守による科研費プロジェクトのメンバーであり、メディアアートの製作者・その分野の研究者である森 公一(MORI Koichi/同志社大学教授)氏が、[美術史に根拠を置くのではなく、]「現代の社会との関係をふまえた美術教育、その具体的な方法が分からないというのが、みんなの思いではないか」と、なぜ、同時代のアートを取り上げる理由、しかも、やなぎみわでなくてはならない理由を述べている。

 次に、永守はやなぎみわの「少女と老婆」が登場する作品群を取り上げる。それらには「成熟を拒否する」ような部分が感じられるが、その意味で表面的には「反教育的」かもしれない。しかし、作品に潜む反社会的な部分を認めたうえで、「教育的」なのではないかという逆説的なロジックを展開した後に、「アーティスト『やなぎみわ』は、アーティストと社会の間の「成熟の道」を[作品を通して]指し示しているのではないかと永守は切り込む。これに応えるかたちで、アーティストとして歩んできた道のりについてのやなぎ自身によるリフレクションが始まる。

 「山の中の大学にずっといて 時間があって 情報も非常に限られていて」、染色という伝統工芸をもとにした、「素材と密着したドロドロした作品」を制作していた時代は、「全能感の時代」だったと、やなぎは振り返る。卒業後、その反動のように作品を作れない時期が3年間も続く。「最後になるかもしれないけれど、一つ個展をしたいと思って、」開催したのが「生身のエレベーターガールの展示だった」。

 この発言を受けて、永守がすかさず、「その時に画廊をガラス越しに見て、写真をぱっと思ったというエピソードを読んで、僕は感動しました。つまり、やなぎさんがここでメディアと出会ったんだ、とちょっと感動しました。」と述べ、メディアと認識の問題という、永守が長年追究しているテーマにとって、やなぎ作品の持つ意味の重さを示唆している。

 森がエレベータガールというモチーフの誕生にかかわる逸話をやなぎから引き出した後、再び、話題はメディアの問題に戻っていく。やなぎは、作品と自分との距離を操作する方法論として、冷静に写真というメディアを次のように分析する。

 「ファインダー越しに覗いて一つの装置を通すわけですから、距離もあるけれど、被写体を箱の中に詰め込んで映し出す、一つの空間をぎゅっと小さな箱の中に凝縮して紙に結晶化させる。写真はある種フェティッシュ感がありますね。そういう感覚として興味があったんですね。その感覚で作品と自分の距離を操作したわけです。」

 後半、この鼎談では、やなぎ自身が積極的に自らの作品や表現について語っている。彼女の表現契機を探る者にとっては貴重な資料であると思われるので、近々、後半の流れも紹介したい。

上記に紹介した鼎談が掲載されている文献の情報

「Matrix 基礎造形教育学研究」No.5 [世界と触れあう方法]

発行者;基礎造形教育学研究会(Team Matrix)科研プロジェクト「映像創造学習を支援する対話型メディア環境の開発」

発行日:2007年3月1日

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前回・前々回の補足

 前々回の、バージャーによるザンダーの作品に対する批評を取り上げたところでは、スーツの発祥と発展という服飾史に関する基本的な知識を持つか持たないかということが、この作品が「クラス・ヘゲモニーの浸透と階級構成の変化を物語る貴重な歴史資料となる」ことに気づくかどうかの分かれ道になるということから、見る行為における「知」の役割について書き及んだ。前回は、コラージュを利用したシュビッタースの作品について解説するアイスナーの文章を引用しながら、ナチズムを象徴する記号とゲプリーフトというドイツ語の意味を知ることで、古ぼけた紙袋でできた作品が、ナチスドイツに追われた難民か、亡命者か、アウシュヴィツに送られたユダヤ人の命運を暗示する作品へと変貌することを述べた。ともに、作品に関する知識を忌み嫌う楽天的な鑑賞姿勢に対する「警鐘」という意味を込めて取り上げた話題であるが、振り返って読むと、作品鑑賞全体が知識の連なりで成立したあり方を賞賛しているように誤読される可能性を否めない。そのように省みて、言わずもがなの補足を簡単に加えておきたい。

 前々回の話題についていえば、スーツの知識は、三人の農民の写真を「クラス・ヘゲモニーの浸透と階級構成の変化」を物語る貴重なドキュメントに変えるだけではなく、三人の若い農民が着慣れぬスーツを着て、ダンス会場という、いわば晴れの舞台に向かって、舗装もされていない悪路を黙々と歩くという物語が生み出す、なんともいえないペーソスを視る者にもたらすのである。もちろん、三人の青年の期待に胸弾ませる静かな高揚感に想いを至らせてもよい。そういう情緒的な意味の層に、ひとつの知識が鑑賞者を誘い始めるのである。さらに、それは、ヘルマン・ヘッセの『車輪の下』の結末までをも私に連想させる。前回のシュビッタースの作品に関しても、荒鷲のマークとゲプリートの文字の意味を理解することは、単に、その作品がファシズム期ドイツの禍々しい歴史を象徴しているということを学ぶことにとどまらない。この紙袋は、命からがら逃げ出した難民がその貴重な物品を検閲され、中身を没収されたあとの残骸だろうか。それとも、ある日、突然、公道で拘束されたユダヤ人が携えていた手荷物が没収されたのだろうか。あるいは、郵送された荷物が検閲されたのだろうか。いずれにしても、この紙袋の持ち主の過酷な人生を思い描くことで、さまざまな、悪夢のようなイメージが次々と呼び起こされる。

 知識は、たんに知識に接続するのではなく、さまざまなイメージを喚起し、陰影に富んだ感情を呼び起こし、激しく揺り動かすのだ。そういうことを示唆したくて、取り上げた話題であったが、それぞれの批評の解説に努める気持ちが勝って、書き足りない記述となったと、反省している。もちろん、作品鑑賞において、知的インフォメーションをできるだけ排除したいと考えている人々にとっては、こうした説明もあまり意味を持たないかもしれない。

 所詮、知識から広がるイマジネーションなどというものは、画一化された物語に回収されるだけの質しか備えていないのであり、やはり、子どもなら子どもの、老人なら老人の、女性なら女性の立場から、そして、そうした属性をも超えた個の固有な経験から、作品と向かい合うべきであり、そうした真剣な作品との対峙に比較すると、ここで取り上げられた知識から誘発されたイマジネーションには魅力を感じないね・・・と、言われそうである。触知できる世界、イマジナティブな世界ともに、言葉を頼りにして探索する認識には限界がある。鑑賞場面においても、あくまでも、視る者に固有な主体的認識を模索すべきであり、スーツや検閲の知識を導きの糸として、作品にかかわるのは最もいけないことだ・・・と、言われそうでもある。

 しかし、はたして、そうだろうか? 知識は、個々の人間の情緒的・身体的・想像的な世界を結ぶコミュニケーションのツールであると同時に、個々人の感情を揺り動かし、イマジナティブな想像や幻想を産み出すモメントを用意する大きな要素である・・・と、私は考えている。もちろん、言葉で掬えない気分の世界、知識を凌駕する圧倒的なイメージの世界を認めたうえで。

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エリオット・アイスナーによるシュビッタース作品批評

 前回は、バージャーによるアウグスト・ザンダーの写真に対する批評を通じて、作品に関わる最低限の知識が視る者にもたらされると、当初の表層的な見え方とは異質な<意味の層>を作品が纏い始め、歴史的・社会的な文脈のなかでの固有の価値にさえ気づくことができるということを述べた。作品を見るという行為のプロセスについては、写真批評家である飯沢耕太郎の次の言葉がより包括的なまとめとなるだろう。

 「見るという行為は、直線的な、鏡が光を反射するような現象ではなく、複雑に入り組んだ、層を成した出来事と経験の束なのである。その多層的な構造を明らかにしていくためには、全体を一挙につかみとる直観力とともに、精密な、注意深い手続きが必要となる。」(ジョン・バージャー著『見るということ』 筑摩書房・2005年 所収)

 このことは、なにも写真についてだけ当て嵌まるものではない。今日は、その事例について触れておきたい。ご紹介するのは、芸術教育/美術教育の世界では、知らない者はいないといえるほど著名なエリオット・アイスナー(Elliot W.Eisner)*の著書から、彼がクルト・シュビッタース(Kurt Schwitters)の作品について語った部分である。

 アイスナーは、その主著であるEducating Artistic Vision (和書名『美術教育と子どもの知的発達』) の第4章のなかで、次のように述べている。

「芸術作品は歴史的なものであれ、現代的なものであれ、特別な意味をもった象徴を用いることが多い。[中略] 芸術作品がそのような象徴的意味を含む場合、象徴の意味を理解し、解読するために適切な経験が必要となる。」 (E.W.アイスナー著・仲瀬律久ほか[NAKASE Norihisa et al.]訳 『美術教育と子どもの知的発達』 黎明書房、1986)

「クルト・シュビッタース(Kurt Schwitters)のコラージュを例にとろう。この作品には、様々なシールと切手をはった古い買物袋が使われている。」(前掲)

 掲載された図版には、たしかに古い紙袋にいくつかのシールが貼られているのがわかる。もちろん、それだけではない。そのうちの一枚のシールには、あの有名なナチスのハーゲンクロイツと荒鷲を組み合わせたスタンプが押されている。

 このことによって、なにか、あの禍々しい時代のドイツに関連する作品であることは、誰にも推測がつくことだろう。しかし、アイスナーの言うとおり、「もし20年代末、30年代、40年代のナチスの体制を知らない人が見たら、この作品の意味するものがいかに変わってしまうか想像して」みることも可能である。おそらく、それは古ぼけた、持ち手つきの紙袋にすぎない。

 その紙袋には、清涼飲料水の「ファンタ」のロゴに似たシールも貼られている。その隣に貼られている別のシールには、「FOX」のロゴとポップなひまわりのような図柄があり、「20世紀フォックス」の映画チラシを連想させる。これらの影響で、鷲の図柄の印象が弱められていることから、ナチスドイツの象徴が鍵十字であることを知っている者でさえ、この作品を旅の記録と誤解することもありえるだろう。少なくとも、この作品が次のような重い意味を持つことに思い至る者は少ないのではないだろうか。

「ナチスの記章、検閲済ということば、そして、くしゃくしゃにされやぶかれた買物袋は、そのままナチスの大虐殺から逃れた難民によって運ばれてきたかのように、すべてが作品に視覚的に影響している。」(同掲書)

「あるシールはナチス国防軍の記章を示し、ドイツ語「ゲプリーフト(Gepruft)」[uはウムラウトあり]は検閲済を表している。第3帝国からの切手も、オスロからの紙のシールと同様に紙袋の上にはりつけられている。」(同掲書)

 どこかの展覧会に飾られていたとしても、シュビッタースによるコラージュの手法の巧みさぐらいしか採るところのない作品として、通り過ぎてしまうかもしれない古ぼけた紙袋の作品が、生命の危機さえ孕む必死の国境超えに携えた亡命者の荷物や、ある日、突然、捕捉されアウシュヴィッツに収容されたユダヤ人の手荷物に見えてくるのは、荒鷲のマークがナチス国防軍の記章であり、ゲプリーフトという文字が検閲済を意味するドイツ語だということを理解した後である。その知識によって、作品に突如、命が吹き込まれる。その古ぼけた紙袋の傷んだ皺さえもが、迫害の歴史を端的に象徴する迫真の表現となる。

 <作品鑑賞には、何の知識も必要ありません。ただ、感じたまま、思ったままでよいのです。> <作品鑑賞に、知識は禁物です。外から付加された情報は、主体的・自発的な鑑賞を阻み、鑑賞者の生活世界から作品を切り離してしまいます。> <ひとから与えられた情報で、作品鑑賞をしてしまうと、依存的な姿勢が身についてしまいます。ですから、余計な情報を鑑賞者に与えないように注意しましょう。> これらの言説が、まことしやかに流布している。昨今の鑑賞教育の論調の中には、作品にかかわる知識と主体的な鑑賞を二項対立の図式に押し込む傾向もみられる。前回のバージャー、今回のアイスナーの批評を通じて、こうした傾向に歯止めがかかることを期待してやまない。

*[アイスナー、シュビッタースともにカタカナ表記には幅がある。美術教育の世界では、アイスナーと表記しているが、音楽教育の世界では、アイズナーという表記が多いようだ。シュビッタースについては、シュヴィッタース、シュビタースの別表記もたくさん見られる。]

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ジョン・バージャーによるアウグスト・ザンダーの写真批評について

 「見る行為は歴史・文化・社会の総体と深く関わり、常にその影響を受けている。異なった社会、異なった文化に属する人々が、同じものをまったく正反対に見ているということはよくあることである。」  「見るという行為は、直線的な、鏡が光を反射するような現象ではなく、複雑に入り組んだ、層を成した出来事と経験の束なのである。その多層的な構造を明らかにしていくためには、全体を一挙につかみとる直観力とともに、精密な、注意深い手続きが必要となる。」 これらの言葉は、写真批評家の飯沢耕太郎(IIZAWA Kotaro・1954-)が、ジョン・バージャー著『見るということ』(翻訳者:笠原美智子KASAHARA Michiko/筑摩書房・2005)の解説のなかで述べたものだ。

 アートと接するときに、「見る」という漢字に替えて、「視る」や「観る」、ときには、「看る」や「診る」という漢字のほうが当て嵌まる場合があるのも、見るという行為が一筋縄ではいかないことを表している。

 笠井が訳し、飯沢が解説を行っている、ジョン・バージャー著『見るということ』に収められたエッセイには、「見る」という行為には「精密な、注意深い手続きが必要となる」ということを実証する話題が幾つも含まれている。そのなかでも、「スーツと写真」というエッセイはいろいろなことを考えさせてくれる。

 面白いのは、読者はこのエッセイによって、分析され批評され解釈されるアートの側の特徴に気づくと同時に、わたしたち見る側が属する世界のことを振り返らざるをえなくなることである。すなわち、露骨な「階級社会」に暮らしていないという、わたしたち日本人のいわば消極的「特性」、つまり、現代日本人の属性をよく逆照射してくれる点が面白い。

 このエッセイのなかで取り上げられている写真は、アウグスト・ザンダーが1914年に発表した作品である。三人の若者がスーツ姿で野外を歩いている姿が写っている。写真家によって、これから写すことを告げられた三人の若者は、しばし歩みを停めて、顔だけを右横に向けて、こちらを向いている。三人とも帽子を被り、手にはステッキを持っている。前方(写真右手)から二番目に歩いている男は、男前である。三番目の男は、くわえタバコをしている。道はややぬかるんでいるようにもみえる。なぜか、<どこかから帰るのではなく、これから何かの会に参加するために歩いている>ようにみえる。・・・・・・・・これが、掲載されている写真から私が読み取ることができた全ての情報だ。

 バージャーは、「この写真には、言ってみれば、ゾラのような叙述の天才が紙に記したほどの、多くの情報が描き出されている」という。そのうえで、「あえて、ただ一つの事柄について考えてみたい。すなわち、彼らの着ているスーツである。」と述べる。(ちくま学芸文庫版『見るということ』46頁)

 バージャーは、スーツを着た三人の若者を指して、「彼らの手は大きすぎ、身体は痩せすぎで、足は短すぎる」と評している。もちろん、それは慣れないスーツを着ていることから生じてしまう「見え方」なのであり、幅広の肩や大きながっしりとした手という強靭に鍛えられた肉体そのものは、着る人々の肉体にフィットする昔ながらの礼服や野良着を身に纏えば、一日中、座業を行なう人々の萎えた体よりも美しいはずである。

 「スーツは19世紀後半のヨーロッパで、職業的支配階級の衣服として発達した。[中略]それは純粋に座業的な権威を理想とする支配階層の最初の衣服であった。会議のテーブルにつき、管理する人たちの権威である。」 (『見るということ』 53頁)

 「スーツを着始めたのは、すべてに抑制をきかせた典型的な英国紳士である。しわくちゃにしたり、折り目を台なしにしたり、傷めるするような、乱暴な行動を禁ずる衣服である。」(『見るということ』 53-54頁)

 このようなスーツに関する西欧の常識を差し挟み、20世紀初頭のドイツにおける厳然たる階級の存在と、階級によって棲み分けされた世界の象徴としての「衣服」という発想を身につけると、この写真作品の見え方はガラリと変わってしまう。クラス・ヘゲモニーの浸透と階級構成の変化を物語る貴重な歴史資料となる。「若い農夫たち、ヴァスターヴァルト」という作品名を見ていても、「三人の若者がスーツ姿で野外を歩いている姿が写っている」という単純な事しか読み取れなかった初見での自分の感想がいかに表層的で浅薄なものかということがみえてくる。

 と同時に、それはひとり自分だけの、注意力を欠いたものの見方なのだろうかと問うてみると、別の考えも浮かんでくる。

 士農工商という固定化された身分制度の江戸期や、貴族・華族・豪商と平民の厳然たる階級差が存在した戦前の社会、そして自らの家系を辿り名家を誇る精神的貴族趣味に溺れていた戦後まもなくまでの『斜陽』の時代、さらに、図式的に資本家と労働者を裁断して反権力を声高に叫んだ時代に対して、次々に別れを告げる長いプロセスを経て、よくも悪しくも、階級という意識が薄れた「現代の日本人」という属性を、この写真はもののみごとに炙り出してくれる。―そう考えることもできる。

 もっと拡大解釈をしていけば、スーツという服装のルーツと発展の歴史に無自覚なままに、文化的な相対化のセンスさえ失ってしまった日本の近代化の問題にも突き当たるかもしれない。

 結論:ジョン・バージャーの「スーツと写真」は、 「見る行為は歴史・文化・社会の総体と深く関わ」っていることを立証する優れたエッセイである。

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國領經郎と切手

國領經郎氏の絵が切手になっているので紹介しておきます。下記のURLをクリックして関連のサイトの情報をご覧ください。切手という、とても小さな矩形のなかに、広漠とした砂丘の風景が押し込められている点に、かえって、心惹かれます。しかし、その風景のなかに入り、近づいてみれば、極小の砂粒だけになる。あとは分子、素粒子の世界が果てなく続いています。そんなマクロコスモスとミクロコスモスの戯れを切手を通じて覗くことができます。

http://www.post.japanpost.jp/kitte_hagaki/stamp/tokusyu/1997/1208/index.html

http://www.mahoroba.ne.jp/~gonbe007/hog/shouka/00kitte.html

http://yushu.or.jp/s_data/97jpn/97kine/971208c1.html

http://www.jttk.zaq.ne.jp/heimat/favorite.htm

逸話の追加

 生前のテレビ番組でCONTAX G1で風景スナップを撮っているお姿を拝見した記憶がある。このカメラが1994年9月の発売だとすると、同年10月のフジテレビ放送の番組のなかのひとコマなのだろうか。それとも、手元の年譜には記載されていない別の番組のなかでのことか・・・・わからない。いずれにしても、この高級レンジファインダーを持ち歩くお姿がなかなかさまになっていた。

 切手の図柄に採用されたこと、ずいぶん数多く、テレビに出演されていたこと、人通りの多い横浜駅東口コンコース付近に壁画ならぬ壁彫レリーフ 「希望」(1985)を制作したこと、権威の象徴である日本芸術院賞を受賞し、日本芸術院会員になったことなど、幾つもの理由で、國領經郎氏の作品群が持つポピュラリティーは、亡くなられたあとも衰えることがない。

 一例をあげると、数年前にTBS系で放送されたドラマ「砂の器」のサイトの視聴者書き込みのなかに、「エンディングのシ-ンが、とてもすばらしいと思いました、私は国領経郎の絵画がすきですが、国領の砂の世界と重なりとても感銘をうけました。」というドラマの感想をみつけた。一例ではあるが、國領經郎氏の絵画世界が、わたしたちに、新たな「砂浜」や「砂丘」のイメージをもたらしたことは確かである。

Tsunerou KOKURYO è un’artista che aveva dipinto la duna ed i nudi femminili.

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國領經郎先生の思い出2

前回、積み残した「逸話」について

 横浜国立大学の教養教育、具体的には一般教育の改革への着手は早かった。総合的なテーマ・・・たとえば、「東と西の文化」などのテーマのもとに数多くの教員による連続の講義があった。思い出すのは、こうした教養の授業のなかの一コマ。國領經郎教授は制作とイマジネーションの関係について大きな階段教育で話していた。オーダーメイドと思われる品のよいスーツの似合う長身の教授は、張りのあるよく通る声で、ご自分が見た「夢」の話をしていた。

 シュルレアリスムの話の流れから発展し、自作の制作に関する裏話の一環で、話が夢に及んだのだと記憶している。國領經郎氏の夢には妖しい女性が登場していた。エロティックな幻想風景を追究していることで知られていた國領經郎氏の作品世界の背後に、こうした夢の世界が広がっているのかと納得させられる話だった。その夢の内容以上に、聴衆である受講生を自分の夢の世界に引き込んでいく國領經郎氏の話術に一学生として驚かされたことを記憶している。

 昨今は、きりっとスーツできめるアーティストも少なくないが、理路整然と話題をコントロールして、臆することなく朗々と自分の考えを述べることができるアーティストとなると、やはりいまだに稀である。あいかわらず、内省的な面持ちや挑発的な倣岸さをマスクにして、支離滅裂な話を放言している売れっ子芸術家の姿をよく見かける。明晰さと混乱、そういう比較の目で振り返ると、國領經郎氏の話術の巧みさと筋の通った話の展開が、いまだに強く印象に残り、なつかしい。

 ところで、國領經郎氏は、深く文学に通じていたアーティストだった。彼の文学的な素養の深さについては、1967年から1970年まで続いた「文学の中の美術」という雑誌「教育美術」の連載が示唆していると思われるが、あいにく未読である。このシリーズで取り上げられた、さまざまな文学への愛着や思い入れがあり、そこから國領經郎氏は自らのイマジナティブなテーマを紡ぎだしていたのではなかろうか。大学・大学院での授業では、あからさまにご自分の文学的背景を誇示することは無かったが、随所に小説との接点が見出されるような話が多かった。

 吉行淳之介に「砂の上の植物群」(1964)という小説があるが、國領經郎もまた虚無的な若者の群像として<砂の上の植物群>を描き出したともいえよう。ここで、吉行の名前を出したのには理由がある。それは、<濃密なエロティシズムの只中に身を置くことが、五感・六感を統合し超越する>という、「暗室」や「夕暮れまで」に結実した吉行の思想と同様な考えを國領經郎の絵画世界のなかにも読み取ることができるからだ。それは、しばしば、吉行の小説の中にも出てくる女性の身体(女体)を自然の風景に見立てる趣向・嗜好と同様な試みを國領經郎氏が試みていることにも表れている。(國領經郎「踞」1983、「連」1987-1994 etc )(関連文献:國領經郎「吉行淳之介『砂の上の植物群』より」『教育美術』Vol.30,No.10、1969年10月号)

 もう一つの逸話:たしか、大学院の授業の折に、点描の描法について話してくれたことがある。それは國領經郎氏が限られた時間のなかで、計画的・組織的に絵を描くのに、この点描という方法が役立ったという話だ。学校で教えてから帰宅した後の、限られた時間のなかで、疲労しきった体を動かして、大作を仕上げるためには、それなりの方法が必要だった。全体のバルールを壊さずに、計画的に描き進めるためには、この方法は合理的であった。もちろん、このことは國領經郎氏のように、緻密で計画的な事ができる能力を持ち合わせていなければ当てはまらないことだが、説得力のある話であった。また、とかく砂の描写との関係性でのみ取り上げられる彼の点描を別の角度から考えさせてくれる点で興味深い話であった。

 國領經郎氏は、美術教師として教壇に立った、いわゆる「現場」での教育歴も長かったことから、大学院で美術教育関係の授業も、たしか複数授業担当の形態で教えていた。そのときに、わたしたちに出した課題は、点・線・面・色彩・テクスチャー・動き・構図など多項目にわたる分析観点を用意して、小学校から中学校まで現行の教科書の内容を調べ、コメントせよ、というものだった。いわゆる造形要素ごとに内容を調べ、指導計画の一貫性の有無について考えさせようとする課題である。その当時は、國領經郎教授にしてはずいぶん分析的な課題だと思ったものだが、いま振り返ってみると、彼の合理的で緻密な性格がストレートに表れた課題のように思える。これも逸話の一つとして挙げておきたい。

Tsunerou KOKURYO è un’artista che aveva dipinto la duna ed i nudi femminili.

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國領經郎先生の思い出               (柏崎との関連記述を含む)

 画家、國領經郎(別表記:国領経郎/よみ:KOKURYO・Tsunero 1919-1999)は学部、大学院を通じて私を指導してくれた恩師のひとりである。といっても、横浜国立大学で國領教室で洋画専攻をした学生、院生がたくさんいるので、学部時代は美学、大学院では美術教育を専攻した私は、國領教室のメンバーからみれば、傍系の傍系に過ぎない。学部と院の授業や頻繁に開催されていた横浜国大美術科のコンパ、そして、國領先生が院生を中心に学生たちの発表の場として主催していた「赫土展」(読み:Shadoten・横浜画廊)のうちあげの会などの機会に、ご指導を受けたり、お話を伺ったにすぎない。したがって、画家・國領經郎や教師・國領經郎については、もっと深く、幅広く語ることができる愛弟子たちがたくさんいるはずなので、ここではエピソード的な話を綴るだけにとどめたい。

 まず、なぜ、いま、故人である國領經郎氏の想い出を綴ろうという気持ちが沸いたのか、その話を簡単にしたい。連日連夜、新潟県中越沖地震(7月16日午前10時13分)の惨状がテレビや新聞で報道され、続いて、柏崎刈羽原子力発電所の放射能洩れのニュースが流れている。同じ震度の地震が襲えば、ひとたまりもなく倒壊するはずの古い木造家屋に住んでいるだけに、亡くなられた方々について詳しく報道したニュースや被災された方々の窮状を伝える映像は、我が事のように胸を打つ。

 そして、柏崎の原発の被災の問題。意図的ではなかったのかもしれないが、事故の大きさが当初、過小評価されていたことに不安を覚える。たまたま視聴した、「スーパーストーム第二回」(NHKhi・7月18日)に含まれていたドキュメンタリーの内容が、<チェルノブイリが放出した放射能が、人工降雨によってベラルーシに強制落下させられた>という驚愕の内容だった。しかも、その事実は隠蔽されていた。海外の事例とはいえ、原子炉事故に起因する対応全般にたいして抱いていた漠然とした不安に形を与え、あらゆる報道にたいして、猜疑心を掻き立てられるドキュメンタリーであった。日誌的にいえば、そのような流れのなかで、「柏崎」という地名が頭から離れなくなった。

 そして、おぼろげな記憶の中から、國領經郎に関する評論か年譜のなかに、たしか、新潟県柏崎市に教員として赴任していた時期があることを手繰り寄せ、思い出した。「そうか、柏崎は恩師國領經郎が東京美術学校図画師範科を卒業して、最初に勤めたところだった。」

 年譜で確かめると、1942年(昭和17)年、23歳のときに新潟県立の旧制柏崎中学校に赴任している。同年、召集を受けて近衛師団に入隊。中国中央部に派兵後、終戦を迎え、復員。1947年、柏崎中学校に復職している。この年、その後、ながいつきあいとなる公募団体の日展に初入選している。翌年には新制高校発足により、柏崎高等学校教諭となる。その翌年には東京都大田区立大森第一中学校に移動しているので、「したがって、柏崎での教職生活は通算で3年と2ヶ月余という意外に短いものであった」。(武田 厚「國領經郎の画業-「孤愁の心象」について」横浜美術館学芸部編『國領經郎展』図録 1999年)

 しかし、この間、國領經郎は精力的に柏崎市内や近郊の風景をスケッチしている。上記括弧内に表記した展覧会図録に掲載されている昭和23年の「絵便り」26葉のなかから、「本町通り中心街」(9.3mm・14.2mm)と題するスケッチを資料として掲げておこう。(出典を明記した上での資料として扱いたいので、きわめて小さな画像となることをお許しいただきたい。)

Kokuryokashiwazaki  ご覧の通り、短い時間で描いた洒脱な筆致の風景である。このほかに、「柏崎駅」「郵便本局附近」「駅前通り」など繁華な市街の様子を描いたものや、「柏崎の海岸」など海辺の風景を描いたものもあり、いずれも軽妙な筆致で描きだした晴れやかな風景である。おそらく、いまとはまったく異なる街のたたずまいなのではないか。そういう今昔比較の観点からも、興味深い風景スケッチにちがいない。関心があるかたは、ぜひ、出典の図録にあたっていただきたい。

 國領經郎といえば、砂丘や砂浜の画家として記憶しているかたも多いだろう。その砂丘や砂浜というテーマに至る風景との出会いがこの柏崎時代にあった点で、短いとはいえ、柏崎は國領經郎にとって重要な土地である。戦前、柏崎の旧制中学校に赴任した頃のことを図録解説は次のように描写している。

「國領は連日教室の窓から暗い日本海にのびる砂浜を見つめ、授業が終わって後その風景を描き続けた。見知らぬ土地に一人で来たという孤独感、戦争の最中の荒涼とした北国の海が画家には妙に近く感じられた、という。」(新畑泰秀「初期の模索:柏崎時代を中心に」上記図録解説文)

 このように、画家國領經郎を語るとき、柏崎は欠くことができない土地である。私が学生として、横浜国立大学教授の國領經郎に出会ったとき、彼はすでに日展の審査員となり、柏崎を離れて四半世紀が経とうという頃であった。その頃の彼のテーマは、砂浜のうえで虚無的に漂うように歩き、出会いの交歓など微塵も感じさせることなく、美しいマヌカンのような肢体を晒しあう若者たちの群像だった。時代の風俗を絵の中に大胆に取り入れることにも積極的で、アフロヘアーやジーンズという同時代のファッションを描き、異色の人物像の描写として日展のなかで異彩を放っており、都美館で毎年開催されていた日展会場では、いつ行っても、國領經郎の絵の前には人だかりができていた。

 國領經郎の画業について、あらためて批評することは、(教えていただいた時期が長いだけにかえって)憚られる気分だが、あえて言えば、1981年の「風」などにみられる黒衣の群像表現の巧みさや動と静を併せ持った構図を特徴とするクリエイティブな表現は、日展という身動きの取りにくそうな芸術家集団の絵画表現のなかでは、とりわけユニークであり、常に「清新」で実験的なその作品は、同じ会場に掲げられたいわゆる「手馴れた」作品群との間に、見えない一線を引いている観があった。

 エピソードを綴るだけといっておきながら、肝心の逸話を書かずに長くなってきてしまったので、(エピソードの代わりに、)かつて友人が大学の絵画室で撮った教授時代の國領經郎氏の写真を掲げておきたい。下の画像部分をクリックすると大きくなるのでご覧ください。(逸話はまた別の機会に述べようと思います。)

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Tsunerou KOKURYO è un’artista che aveva dipinto la duna ed i nudi femminili.

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ティファール電気ケトル礼賛

 ブログというものは、内容を充実させようと努めると、積載オーバーの気配が漂うものなのではないか。どこかのブログで、どなたかが、ブログとはひたすらダラダラと日常を書いていくのに向いたメディアだと書いていたのを読んだことがある。たしかに、日々の話題を上から下に流して読むこの形式は気負いが表れると、毎日、締め切りを設定されたレポートのようになってしまう。話題を煮詰めずに、話題沸騰とするための、ブログに向いた書きかたというものがあるのかもしれない。というわけで、ゴッホもベッヒャーも脇に置いて、今日は、(話題ならぬ)お湯を沸騰させるティファール(T-fal)の電気ケトルについて。

 日本の電気ポットは、貯めていたお湯の温度が下がれば自動的に湯沸しのモードになり、蒸気が出て、お湯が沸く。わたしたちは、常に熱湯を身近に置いて、好きなときにお茶やコーヒーを作ることができる。そのかわり、下手をすると、いつまでも古いお湯を沸かしなおして飲むことになる。これは、あまり清潔とはいえない。もちろん、日本の電気ポットでは、そのための対策も練られていて、活性炭を詰め替えたりできるものもある。しかし、その活性炭を替えることを忘れることもある。こうして、まるで対策が後手後手に回る事態の収拾劇のように、人間をフォローする機械と忘れやすい人間の格闘が始まる。

 必要なときに必要なだけ、最低限の電力で、お湯を沸かせばよい、というティファールの発想は、日本のポットに象徴される、「機械の進歩は人間の手間を省く」という進歩史観をいとも簡単に覆してしまう。ポットのなかのお湯が一定温度以下に下がったら、サーモスタット機能が作動し、自動でお湯を沸かしてくれる日本の、至れり尽くせりの電気ポットよりも、お湯が沸いたら自動的にスイッチオフして、無駄な電力を使わず安全を確保してくれるだけの簡単機能のティファール電気ケトルのほうが、なんだか、今風にみえるのは、何故だろうか。

 契約電力量を超えたために突然ブレーカが落ち、電気の供給がストップすることで起きるパソコンのハードディスク損傷事故は、いまだに絶えない。もしも、パソコンを使用中に、エアコン、炊飯器、電子レンジなどがフル稼働しており、そこに、電気ポットの自動湯沸しが気まぐれかつ実直に作動し始めたら、ほんとうに怖い。

 そんなときのことを考えると、昔ながらの機能しか付いていない電気ケトルという存在がやけに現代の生活にマッチしているようにみえるのである。もちろん、パソコンを使用中に、エアコン、炊飯器、電子レンジなどがフル稼働していてブレーカが落ちる寸前に、待っていましたといわんばかりに、電気ケトルのスイッチを入れて、パソコンを破壊する自由も、人間には許されている。

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ベルント・ベッヒャー追悼記事の余白に:2-2/永守基樹の論考

 永守基樹(NAGAMORI Motoki)は「起源への放浪 芸術教育の近代から」と題する論考[註]のなかで、戦後の日本に建てられたおおかたの学校建築を貧しい「箱」と呼ぶ。

註:出典 宮脇 理編『緑色の太陽-表現による学校新生のシナリオ』(国土社・2000年)所収 なお、この図書の紹介が下記URLのサイトにある。http://www.geijutsu.tsukuba.ac.jp/~naoe/pages/midori/midori1.html

 たしかに子どもを能率的に収容するという意味では機能的だが、それらの箱はいわゆる「機能主義美学」とも「近代建築」とも無縁である。まさに、戦後建てられた校舎は「単に子ども達を収容するための最低限の経済性だけで作られている点で、それは工場に似ているのである」。(第一章・141頁) 

 「そのことを感覚的に理解するには、ドイツの写真家ベルント&ヒラ・ベッヒャーの作品を見ればよい。給水塔や石炭庫という似たような機能を持つこれらの施設群は、まったく別々に建てられたものだが、そこには諸々の違いを越えて、一種不気味に、同時にわずかな滑稽さを漂わせながら「同じ」であり、そして一様に死を迎えつつあるかのような表情を見せる。」(同頁) この文脈の中で、ベルント&ヒラ・ベッヒャーの四枚の写真が掲載されている。

 永守自身が生前のベルントの研究室にFAXで交渉して、掲載のための著作権の許諾を得たという経緯を知っているだけに、この論考は私にとっても印象深いものだ。

 永守の鋼(はがね)のように硬質な文体とこれらの写真の訴求力が相俟って、廃墟としての学校のイメージが読者に刷り込まれる、きわめて印象的なプレリュード効果である。この先の展開は、実際に本書にあたって頂きたいが、概略だけ述べると次のような筋道で話が進む。

 戦後の日本社会は現実の学校教育に明解なメッセージも、豊かな思想も託すことができなかった。いまだに、功利的な「学歴」幻想を追い求めている。対する「感性と心の教育」を謳った芸術教育もこの状況と補完的である限りは力を持ち得ない。(第二章)ものを創り描くという「生産中心主義」は、鑑賞の際にゴッホの生涯を重んじる作家崇拝やオリジナル第一主義と同質の近代の芸術観と同根の考え方に依拠している。そのとき受容美学やテクスト理論は脱落している。(第三章)さらに、第三章の敷衍として、「個性」「創造性」「オリジナリティー」概念の批判的検討を行っている。(第四章)近代のテクノロジーがもたらした知覚体制の組織化は、都市化社会の中での個の「救済」と「開放」を願うアートを産んだ。それを教育の中に持ち込んだのが美術教育。その意味で、美術教育はユートピア思想である。(第五章)戦後日本の民間美術教育運動を事例的に取り上げ、前章の検証を行う。(第六章)芸術教育のポストモダンと「造形遊び」の関係について(第七章)ルソー再考によるアヴァンギャルド概念の捉え直し、及びポストモダン批判(第八・九章)

 この論考のなかで、芸術教育の思想性を巡る永守の考察には破綻が無く、鋭利な分析が随所に輝いている。残念なことに、彼を除いて、こうした硬質な論理の組み立てをできる人間は芸術教育の世界では稀であり、それだけに、永守の活躍に大きな期待が掛けられている。

( 蛇足: この論考の冒頭に、著者があの写真を使ったのは流石。でも、貯水タンクや採掘棟のほうが、校庭脇に立ち並ぶ団地のような中学や高校の校舎よりもはるかに威厳があるよね。ベッヒャー夫妻の写した工場設備は、なにか近づくことさえ拒むような威厳があって、見る者を畏怖させる感じ。その意味では、大きな崖を前にしたときに引き起こされる「崇高」という感覚とも通じています。

 これに対して、日本の古い、モルタルやコンクリの校舎は、ボロボロの窓枠のせいで、破れ傘のお化けのような、うらぶれた印象ゆえに恐ろしい。案の定、日本の学校の校舎は、耐震化設計の率も低く、そのうらぶれた印象は、生命軽視の産物である。

 地震や台風の被災者の避難場所が近隣の学校であり、体育館が仮の宿になっている映像が頻繁に流れるために、学校は安全な場所と誤解されがちであるが、耐震化補修が成されていない校舎は実に危険だ。

 先日、報道をメインにしたテレビの情報番組で、コメンテータが、「学校側も教室を開放して、プライバシーに苦慮する被災者の便を図るべきだ」という発言をしていたが、校舎の耐震化補修工事が進捗していない実態について無知な発言といえよう。 )

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ベルント・ベッヒャー追悼記事の余白に:2

 返信のうち、直ぐに頂いたひとの、なかなか挑発的ともいえるお言葉を読んでいて、連想した文章がある。それは「起源への放浪 芸術教育の近代から」(宮脇 理編『緑色の太陽-表現による学校新生のシナリオ』所収/国土社・2000)という論考だ。著者は芸術教育・デザイン教育の世界では怜悧な分析力で知られている永守基樹である。彼は「生産の教育」としての芸術教育という問題を浮上させる筋道のなかで、象徴的なかたちで、ベッヒャー夫妻の採掘塔などの写真を利用している。(つづく)

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ベルント・ベッヒャー追悼記事の余白に

 数多くの地方新聞紙上に、共同通信が配信したと思われる「写真作家 ベッヒャー氏を悼む」という見出しのベルント・ベッヒャーを追悼する記事が載った。執筆は、川崎市民ミュージアム学芸員の深川雅文氏。これによると、ドイツの写真家、ベルント・ベッヒャーが2007年6月22日に、享年75歳で亡くなった。ベッヒャーは1950年代末から、妻ヒラ・ベッヒャーと共同で作品を発表し、「産業社会の証拠物である匿名的な建造物―例えば、採掘塔、給水塔、溶鉱炉、冷却塔、サイロ、工場など-を、大型カメラによって丹念に記録し続けてきた」。特筆すべきは、1990年にベネチア・ビエンナーレで金獅子賞を受賞したことであり、その受賞が彫刻部門からの選出となったことである。このことは、ベッヒャーの仕事が写真の領域を超えて、現代の美術表現として評価されていることを物語る証左であり、記録性というだけでは括れないその作品の性格を表すエピソードである。まさに、「ベッヒャーの作品の力は、世界の見方をより高い次元で構成して世界の見え方そのものを変革し、それによって日常的に覆い隠されている視覚の世界を露呈させるという作用にあったと言えよう」。以上が追悼記事というかたちで述べられた深川のベッヒャー作品にたいする批評の概略である。

 私は何度かベッヒャー夫妻の作品を展覧会場でみた覚えがある。はっきりと期日を思い出せる展覧会は、2005年10月から12月半ばまで東京国立近代美術館で開催されていた「ドイツ写真の現在」展だ。しかし、実際には、かなり前から、創作者自身によって「タイポロジー」と名づけられた9枚組み写真で一つの作品として成立している無機的な建造物の写真をみてきた記憶がある。非常に強いインパクトを見る者の記憶に残像のように残すその作品は、たしかに、産業社会の匿名的機能主義の象徴的遺跡の記録ではあるが、必ずしも心情に訴求する要素を持たないわけではない。ベッヒャーを批評する批評文の多くが、ある種の歯切れの悪さに陥るのは、即物性・記録性とともに、やはり作品のどこかに、荒廃し打ち捨てられた世界をかたどる表現へのベクトルが隠されているからではないか。

 好むか好まざるかを問わず、わたしたちは、この世に生まれて視力を得た瞬間に、ある風景に遭遇する。この偶然性と絶対性を併せ持つ瞬間を想い起こさせるような、あらゆる目的意識や好奇心が脱落しているベッヒャーの目。言葉のニュアンスからは遠いが、言葉の意味に即して言えば、その目は「無垢」であるにちがいない。しかし、その「無垢」なる視力は瞬時に、<ひとを拒み、ひとの前に立ちはだかるモノという存在>を確認し、ひとの心に怯えを呼び起こすであろう。

 心情に直接、訴求する表現観とはいっさい無縁なところで、ひとの情緒を作動させてしまうジェネレータとしての作品。このような、まさに見る者を宙づりにするアンヴィヴァレントな表現ゆえに、ベッヒャーにたいする批評は作品に翻弄され、新即物主義、コンセプチュアル・アート、ミニマリズムetcという言葉の森を彷徨うのである。

 現代写真批評や現代美術批評という文脈から離れて、ベッヒャーの作品から受ける印象から連想されるものを自由に連ねてみると・・・・・・・

 1984年に国立西洋美術館で開催された「ニュルンベルク・ドイツ民族博物館所蔵ドイツ美術展-中世から近世へ」でみた武器や武具の数々。がっしりとした重さを感じさせる重厚なつくりと漆黒に塗りあげる意匠は、ベッヒャーの作品の中の建造物に通じるものがある。

 やはり、1984年の7月から9月にかけて、東京国立近代美術館で開催された「三次元性―ドイツ彫刻の現在」に出品されていた、鉄板や石などでできた立体造形やインスタレーションは、(鈍い光を放つ作品はあったものの、)  ほとんどの作品が黒か灰色、あるいは錆の色であり、地球の重力とは、これほどまでに強力だったかと驚かされるほど、重く、静かに、フロアーに鎮座していた。展示されていた作品の存在感は圧倒的であり、やはり、ベッヒャーの作品の中の建造物に通じるものがある。

 そして、1993年にセゾンでみたアンゼルム・キーファーの展覧会。

あるいは、リヒター展でみた顔写真を並べた作品・・・・。

 これらは、みなドイツ文化圏から生まれた造形物や造形作品だ。ここに、ボイスを加えてもよい。怖ろしいまでの重厚さ、物事を深刻に考えざるをえなくさせる、物が放つ黒いオーラ。論理的に説明できるというあてもないが、自ずと、これら一連の連想をつなぐ根拠を捜し求めたくなるのである。

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ゴッホについて 図書紹介

 ゴッホの作品や人柄、そして、その芸術的な価値をめぐって、さまざまなアプローチが試みられ、数多くの研究成果が発表されている。史実を積み重ねた地道な学術研究も、想像力を働かした大胆な推論を含む論考も、そして、社会学や病跡学や思想史などの研究手法開陳のための事例研究も、数多く存在する。思想史研究の成果の一つが既に紹介した『思想史としてのゴッホ』である。また、注文はしたが、まだ未読のナタリー・エニック著『ゴッホはなぜゴッホになったか』(藤原書店)も芸術社会学的なアプローチが魅力的だという書評が幾つかあり、期待できそうである。

 ここでは、手元にある図書の中から、もう少し軽やかな短文でゴッホの作品に触れた図書を紹介したいと思う。ともに分担執筆の形態で、ゴッホについて叙述した頁を含んだ図書である。

           

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 この本は、『美術鑑賞宣言 学校+美術館』(山木朝彦・仲野泰生・菅 章編・日本文教出版・2003)という本で、近現代の主要なアーティストの作品についての批評が数多く掲載されている。もちろん、ゴッホについても頁が割かれていて、佐賀大学の栗山裕至(KURIYAMA Hiroshi・専攻:美術教育研究)が『タンギー爺さんの肖像』や『坊主(ボンズ)としての自画像』などの作品を例示しながら、ゴッホの日本憧憬と思慮深く堅実な画業をともに紹介している。なお、栗山はゴッホの病気については、徳田良仁の癲癇説を採っているが、強調点はゴッホの冷静で緻密な制作スタイルの方に置かれている。

 この図書については、保坂健二朗による書評があるので下記のリンクをクリックしてご覧頂きたい。

http://www.nichibun-g.co.jp/product/book/sengen/review/review-techo.htm

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 この本はフィルムアート社から出版された『アート×セラピー潮流』(関 則雄・三脇康生・井上リサ・編集部 共編・2002)である。

 芸術批評家と精神科医を兼務する三脇がゴッホとムンクをわずか2頁という紙幅のなかで要領よく語っている。異色の思想家アルトーからの引用文を効果的に利用して、「印象派を批判したゴーギャンは象徴的な色遣いをしたと言われる。しかしゴッホは象徴性など破壊してしまうような色遣いだと言えるだろう。それは、『自然の中のあらゆる形態や事物をぶん殴っ』て出る音のような色である。」とゴッホの作品の色彩表現の独自性に、読者の注意を差し向けようと努めている。

(白抜き括弧内がアルトーからの引用部分。)

 前者の図書は、近現代のアート批評という文脈および鑑賞という文脈のなかにゴッホを置いて俯瞰しようとする企画であり、後者からは、表現の根源にあるセラピー的要素を参照するかたちでゴッホを捉えようとするコンテクストを見て取ることができる。ともに、もとからゴッホを中心に据えた論考ではないが、これらの本の文脈のなかで浮かび上がるゴッホ像もまた、なかなか個性的である。

(ゴッホとは直接、関係ないが、上記二件の著作で分担執筆をしている塚田美紀[TSUKADA Miki]の文章は魅力的だ。未読のかたは、一読あれ。)

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ゴッホについて 覚え書き:その2

 ゴッホについて不思議だと思うのは、ゴッホの作品受容の劇的変化だ。身内や親友を除いて良き理解者も現れず、ほとんど作品も売れないまま、困窮の果てに自殺(推定)をしてしまった彼の画業が、死後まもなく美術愛好家の間で評価され始め、やがて圧倒的な大衆的支持を得るに至る経緯は、<優れた芸術作品は作者の死後にその真価が認められ、ほんものの芸術家は死後に報われる>という一種の神話形成に力を貸している。

 7月13日のところでも紹介した、木下長宏著『思想史としてのゴッホ―複製受容と想像力』 (学芸書林・1992年)の36頁にはゴッホの死後、彼の作品評価が劇的に変わる経緯が簡潔に述べられている。これに依ると、まず、弟テオドールの未亡人であるヨハンナが、親戚・知人からの<そんな絵は捨ててしまえ>という侮蔑の言葉をものともせず、亡き義兄の作品群(これはゴッホの遺産として「テオ」に譲られ、その「テオ」からの遺産としてヨハンナのもとに在った作品の数々)をハーグやアムステルダムで展示し、世間にその存在を広く知らせた。1891年から翌92年のことである。次に、ゴッホの友人でもあった画家エミール・ベルナール(1868-1941)は、1892年にパリでゴッホの小品展を開催した。そして、「ゴッホの立場を決定的に変えた」(木下)のは、1901年3月のパリでの回顧展である。ここで、ヴラマンク(1876-1958)やホフマンスタール(1874-1929)など、当時の画壇・文壇で活躍する有力な文化人の目に留まり評価される。さらに、1905年にはヨハンナによる尽力で、アムステルダムの市立美術館がゴッホの大回顧展を開催した。この間に、商品としての作品価値も鰻登りとなり、ゴッホの(おそらく油彩が)1894年には30フランで取引されたという記録があるが、1900年には別の作品が150フランで取引された。同一の作品ではないものの、急速に商品としての作品価値がアップしたことを伺える記述である。

 ゴッホは熱烈な浮世絵版画の愛好者であり支持者であった。それら浮世絵の図像は日本では大衆的な嗜好に合致し、商業的にも成功したグラフィックである。それらの魅力に逸早く気づき、自らの絵の中に、さまざまな浮世絵の表現技法を取り入れたゴッホには、伝統としての西洋絵画様式に縛られない自由闊達なものの見方、鑑賞力が備わっていたとも言えるわけだが、生前には西欧でのポピュラリティーを獲得することができなかった。ゴッホ受容の文化的土壌の整地が行なわれるまでには、印象派や表現主義の受容、そして、ジャポニズムの浸透などが必要であったともいえるのかもしれないが、それらを考慮しても、ゴッホ受容の劇的変化については、やはり不思議だという想いが残ってしまう。

 成功した印象派の画家たちは、ポピュラリティーというものの本性を見抜いていただろう。浮世絵が生まれた背景について考察する場合にも、西欧のグラフィックの変化の行き先について考える場合にも、「大衆」が好む図像について考えをめぐらしていた。いや、それは印象派の画家たちだけに当て嵌まることではない。プリミティヴィズムに魅了され、それらに分類される図像から隠された表現手法を掘り起こしたアーティストの多くが、大衆が決定する文化の動向と、いやおうなく市場経済に巻き込まれる創作者という存在規定について敏感であった。

 ゴッホはそのような芸術観とは異なる精神世界を彷徨っていた。勤労と芸術、奉仕と精神的救い・・・ゴッホの芸術をめぐる思惟は、宗教的な救済を与え求める者たちの志向に近いような気がする。ゴッホの手紙の朗読を聴いていると、何故か、ワイルドの「幸福の王子」を連想してしまう。そういう連想の背景にも、木下長宏が指摘する造られたゴッホ神話が関与しているにはちがいないが、同時に、ゴッホの思想の根深いところに、前述した宗教的救済に模した芸術観があったと言えはしまいか。

(ゴッホについては、ウェブ上に、驚嘆すべき関連サイトがある。

http://www.geocities.jp/twentyfirstnet/gogh/

 このサイトのカウンター下のムービーのタグをクリックしてみると、魅力的なアニメーションが始まる。また、このサイトはゴッホについての年譜や地図についても充実した情報を提供している。

 このほか、ウィキペディアの「フィンセント・ファン・ゴッホ」の項目には、「ゴッホ作品の高騰」という小見出しがあり、最近の取引価格についての情報が記載されている。

 また、ウィキペディアには、「テオ・ヴァン・ゴッホ」という別項目があり、ゴッホの弟の血筋を継ぐオランダの映画監督兼テレビプロデューサー、テオ・ヴァン・ゴッホの経歴と業績が紹介されている。)

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ゴッホについて

 近隣に「モウラ」という大きな古書店がある。ここは、深夜まで開店している点と、雑誌なども比較的よく集めているので、よく利用している。奇妙な店名はいろいろなジャンルから「網羅」しているという意味だろうか? たしかに、文芸書、芸術/哲学書、マンガから写真集までと、多くのジャンルを網羅的に横断した収集の幅広さは賞賛に値する。その中古CD売り場で、「サウンド文学館 パルナス」第47巻の『ゴッホの手紙』を500円でゲットした。これは、硲伊之助訳のテオ宛書簡462信、500信、524信、533信、554信、593信、652信を俳優の山崎 努が朗読したもの。

 パセティックな感じと苛立った感じが支配的な感情として伝わってくるが、わずかに疲労した感じがそこに混じり漂う点にこそ、この朗読の良さがある。ほんとうに、このような内省的な声質の持ち主だったのだろうか、もう少し、神経質な高い声だったのではなかろうかなどと思いながらも、知らないうちに引き込まれてしまう。山崎 努の表現力は確かである。

 この書簡の内容をどのように受け取るかという、内容についての読みの問題に関しては、木下長宏著『思想史としてのゴッホ―複製受容と想像力』 (学芸書林・1992年)を参照すれば明らかなように、わたしたちのゴッホ像を形成した歴史的な批評言説の時代的な枠組みとポリティカルとも言える批評家の戦略を抜きにしては語れない以上、通俗的な悲劇神話に取り込まれないよう自戒すべきだ。

 しかし、やはり、この朗読から直観的に伝わるのは、楽園から追放された彷徨者の呻吟である。それがどこから来たのかという問題を解明しようというさまざまな学問分野の試みには興味を惹かれる。とくに精神的な障害や医療の分野からのアプローチは、誰もが関心を抱くのではないか。

 前述の『思想史としてのゴッホ』には、精神病理という観点からゴッホ理解を進めようとする基本的な枠組みが、式場隆三郎による昭和7年(1932年)の考察からほとんど変わっていないという記述がある。すなわち、名づけられる病名の選択肢に大きな変更がないということである。

 しかし、わたしたちは、現代の人間の心の奥底にあるさまざまな問題の多くが、薬物中毒や脳の器質的な疾患からではなく、社会的な人間関係から派生する失調だということを常識的に知っている。そのような観点から言えば、ゴッホの耳切り事件も自殺も、もしかすると誰にも起きるかもしれない、異常ならざる心の振り幅のどこかに位置づけることができる事件なのかもしれない。

 テオへの手紙全般を検証したわけではないので、とりあえずの感想の域から出ないが、山崎 努による幾つかの手紙の朗読から浮かび上がるのは、ゴッホの罪悪感と父母や弟への負い目である。ゴッホはなんらかの関係から、身近な女性の堕胎を救えなかった、あるいは傍観したという罪悪感に捉われていたのではないか。また、肉親の生活向上に役立たない自分の非力を悔やんでいたのではないか。そういう思いがゴッホを苛み、病的ともいえる苛立ちへと追い込んでしまったのではないかと思う。そういう心のありようというものをどのように位置づけるかによって、ゴッホへ貼り付けられたレッテルはいとも簡単に剥がれる可能性もあるのではないか。

(蛇足的覚え書き:ゴッホは自分の作品を芸術市場という流通回路に乗せる方法を模索しなかったわけではないだろう。しかし、流通からフィードバックして作品を変えるようなことは、彼の芸術観が許さなかった。ゴッホはむしろ、芸術家コロニーを夢想するタイプの思想家であった。彼の描く芸術家コロニーは、疎外された者たちの楽園であると同時に、勤労意識と芸術制作が矛盾なく結び着いた、モデル化し難い理想世界である。ゴッホにおけるジャポニズム受容は、商品として作品を扱う芸術市場からの遁走の先に蜃気楼のように浮かび上がる幻影としての日本を信じるところにある。 )

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造形教育WIKIについて

ブログ開設記念という見出しの文中で「造形教育WIKI」という言葉を使いました。

 これは、最近、始まったばかりのプロジェクトの名前です。しばしば周辺教科という差別的な言葉で蔑視されるArt Educationについて広範な関心を呼び起こすために開設されたサイトで、すでにいくつかの文が掲載されています。下記のURLですので、一度、アクセスしてみてください。

http://wiki.art-edu.info/

 さて、ある研究者は、人間の「死」について用意したいくつかの定義の中に、「芸術的・文化的環境からの隔絶」を含めたそうです。ここでいう芸術とは、美術館での鑑賞といった硬派なものばかりではないでしょう。刺繍を編むとか、室内の模様替えをするというような、ほんとうに身近なことも含んでいるはずです。しかし、そうしたことさえも、心と生活にゆとりが無いとできなくなってしまう。いろいろなことを考えさせてくれる定義だと思いました。

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前回の文中で触れたa.e.netについて

a.e.netとは・・・・・・・・・・・1999年に発刊された研究冊子の紹介文によると、

「1996年、秋、授業時数の削減が囁かれる中、これからの美術教育の展望に不安を抱き、やり場のない焦燥感に駆られた私たちは美術に携わる教育者同士の共同研究の場を求め、小さなサークル活動を始めようと声を掛け合いました。私たちが求めたサークルは、
○美術教育に携わる者同士の情報交換、資料交流、意見交換が活発に行われる場
○学校教育の現実と美術教育の理想とを近づけていく場
○先進学校、先進題材の追試を行い、私たちの糧とする場
○大学教官などによる指導を受けながら研究を深める場
○新しい理論に基づく新しい題材、新しい単元の開発、実践、研究をする場
でした。集まって来た教師、学生、みんなの問題意識は大きく、自由に意見の交換の出来る和やかな雰囲気の中、熱のこもった討議がなされて来ました。会場や日程、内容についてはみんなで考え、実技講習(もちろん講師は自分たち)や、題材開発、実践報告、理論研究が、内容に応じた場の中で行われました。
ここにあるレポートや論文は、その中の一部です。私たちは一貫した1つのものを目指そうとはしていません。それぞれの個性に応じて、理論に応じて、互いの良さが発揮されるように話し合ってきました。焦点がつかみにくいとは思いますが、どうかご覧になってご意見やご感想をお寄せください。私たち美術教育に携わる者同士の輪を各学校種の枠を越えて、さらにさらに広げて行きたいと考えています。その中で、子どもたちと私たちがともに熱中して楽しめる授業を創造していきたいと願っています。」

ずいぶん積極的に研究会を開いていたグループです。大分県の美術の先生方の間ではよく知られているのではないでしょうか。この機会により多くの方々に紹介しておきたいと思います。

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ブログ開設記念

AEネットがここのところ休止しているようなので、応援する意味を込めてブログを開設しました。AEネットの復活と生まれたばかりの造形教育WIKIの順調なご発展をお祈り申し上げます。

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